アンドレ・クレージュ:構成的でシンプルなアイデアをもつデザイナー

1960年代ファッション
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アンドレ・クレージュは機能性を重視した女性用軽装を推進した、前衛派の男性ファッション・デザイナーです(1923年~2016年)。

母国語表記は「André Courrèges」。パリ高等服飾専門学校(École Supérieure des Industries du Vêtement – Paris, ESIV)卒業。

1965年のミニスカート(ゴーゴー・スカート)と平底ブーツ(ゴーゴー・ブーツ)、1967年の全身網タイツ、1972年のシー・スルーの上衣などで有名ですが、他にも様々な革新性を持っていて「未来派のバレンシアガ」や「パリ・オート・クチュールのル・コルビュジエ」と呼ばれました。

クレージュ自身が述べる印象に残った顧客には、ソフィ・リトヴァック(Sophie Litvak)、ロミー・シュナイダー(Romy Schneider)、フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)らがいます。

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関連書

次の書籍はアンドレ・クレージュのデザインや経歴に詳しいです。

本格的にクレージュを調べてみようと思わせてくれた本です。

薄い本ですが少数精鋭でクレージュらしさの伝わる写真が選ばれています。英語ですが、伝記がほとんど出ていない上、見たことのない写真がちらほら載っているので是非お勧めします。フランス語版もあります。

Valerie Guillaume, “Courreges, fashion memoir”, Assouline, 2004.

Valerie Guillaume, “Courreges, fashion memoir“, Assouline, 2004. (to amazon.jp)

生い立ち

アンドレ・クレージュは、1923年、ピレネー山脈麓、南仏ナヴァール地方の中心都市ポーに生まれました。

父は英国人家庭の筆頭執事で、料理や手伝いをこなしてきたことから、クレージュの芸術への関心を否定し、技術を身につけることを強く勧めました。

アンドレ・クレージュの生まれた街ポー(Pau)。©Google Map

その間を縫ったようにクレージュは土木建築学を学び、兵役中も飛行学校を選ぶなど、近代未来に対する関心を強く持っていました。

1944年空軍パイロットとして兵役に従事。その後、クチュール(裁縫師)への興味をもちはじめ、第2次世界大戦後にパリに出て、1946年にパリ高等服飾産業学院に入学。この頃、スウェーデンの既製服産業の成功に関するルネ・アンリの講演を聴講しています。

1947年、クレージュはジャンヌ・ラフォーリのメゾンのデザイナー助手として入店(1952年に辞職)。

1951年からはクリストバル・バレンシアガのもとで10年近くにわたって修行を積み、衣裳構築の美学と技術を学びました。夫人のコクリーヌ・バリエールとはここで知り合いました。

クレージュはバレンシアガの下での仕事をふりかえって次のように述べています。

前半の5年間は毎日が新鮮でよく学んだ。後半の5年間はただの無駄だった。“Life”, May 21, 1965, p47.

故郷ポーで散歩中のアンドレ・クレージュ。イギリス製ツイード地のジャケット。「ライフ」誌、1965年5月21日。”Life”, May 21, 1965.

1960年代

バレンシアガからの独立

1961年8月に クレージュはクレベール通りに店舗を開設して独立。

この年の初コレクションのデザインは建築的な構成美をもち、「白の幻想」をテーマに大当りとなって一躍有名になりました。

最初の4シーズンは厳しく均整のとれたバレンシアガ的な作品を追っていましたが、それ以後はソフトで軽やかな傾向を強めます。

1963年春は白オーガンシーに縫取りした夜のシガレット・パンツを発表し、同年秋にはスカートのヘム・ラインが膝頭まで上がった、化粧気のない、長くてたくましい脚の若いマヌカンたちが登場しました。

次いで、1964年の「ローブ・ド・パンタロン」で、夜会用の服にパンタロンを提案し、スポーティで機能的な傾向を強調、1965年春には「ミニ・ルック」とよばれるミニスカートを発表。このミニ・ルックは、それまでオート・クチュールで最も醜い身体部分とされてきた膝頭を解放しました。

これが爆発的なブームをよび、「未来派のバレンシアガ」と呼ばれました。

ついで1967年のシースルー・ドレスのほか、宇宙服ルック、大胆なチェックとストライプ使い、チュニックパンツの組合せなど、ファッション界に一大旋風をまき起こしました。

パリ・オートクチュール組合を改革

1960年代にパリのオート・クチュール業界の中でプレタ・ポルテ部門をもっていた4社(ピエール・カルダンニナ・リッチイヴ・サンローラン、アンドレ・クレージュ)は、オートクチュールとプレタ・ポルテの2事業を1つにまとめる目的でファッション・ショーのスケジュール変更を協議していました。

イヴ・サンローランは直ぐに抜けましたが、ピエール・カルダンとニナ・リッチは1970年代初頭まで自分のスケジュールを貫きました。

この過程でクレージュは4シリーズを同時に発表しました。ちなみに、1964年にクレージュはフランスのブルジュ(ブールジュ)にあるサミー・エ・モーリス・ヴァンベルクの既製服工場を訪問しています。彼は縁縢・笹縁・釦穴に関しては手作業よりもミシンの方がはるかにうまく縫製できることを知っていたのです。

プレタ・ポルテ部門

1965年1月、クレージュはクチュール組合の公式行事であるコレクションを踏み倒し、同1965年10月に翌1966年春夏向けの3ラインを同時に立ち上げました。

従来のオート・クチュール部門は「プロトティプ(原型)」、プレタ・ポルテ部門は「クチュール・フュチュール(未来のクチュール)」、ニットなど安価なものは「イポルベル(双曲線)」の3部門です。

1966年にはプレタ・ポルテの1号店をパリのフランソワ・プルミエ通りに開店し、次いで翌1967年にUSAヒューストンのサコウィッツ百貨店とニューヨークのボンウィット・テラー百貨店に開店しました。

アンドレ・クレージュ : ミニスカート(1965年)F.C.グンドラフ撮影。Photo FC Gundlach via The first mini by André Courrèges 1965 | © Pleasurephoto Room

また、ミニスカートの制作でクレージュは、従来の柔らかい生地を使わずに、フェルトに似た厚めの羅紗を使いました。ミニスカートの爆発的なブームに伴い粗悪なコピーが氾濫したため、クレージュは3シーズンにわたる活動休止を決意します。

その後1967年に、フランソワ・プルミエに店舗を移設し展示を再開しました。

1970年、プレタ・ポルテ「イペルボール」、オート・クチュール「プロトティープ」、ニット「マイユ」の3シリーズを発表。

さらにコレクションでは「クチュール・フュチュール」 Couture Futur を合わせた4つのシリーズの作品を同時に発表する形態を採りました。

ちなみに、1966年から1967年にかけて、パリのオートクチュール組合の会員数は39から17へと急減しています。

アンドレ・クレージュのコート・ドレス (1965年) Coatdress via The Met

香水部門

アンドレ・クレージュはラインの多様化に留まらず、1960年代に多角経営にも乗り出します。

1965年にロレアル社とクレージュ社はクチュールと香水の会社を共同で設立しました(クレージュ・パルファン社、フランソワ・プルミエ通り40番地)。株式の持ち分はロレアル側に50%、クレージュ夫妻に50%でした。

その後、1971年には香水部門、1973年には紳士服・男性服部門「クレージュ・オム」をそれぞれスタート。1977年には男性用香水「FH77」を発表。

この頃から店舗の体勢をオート・クチュールからプレタ・ポルテへとシフトさせ、建築や産業デザインなどの分野へも積極的な活動を展開しました。

1972年にミュンヘン五輪の制服デザインも担当しました。

1970年代

1970年代のクレージュは、スカート丈や、スカートかパンタロンかという選択などにこだわらず、また年齢層にも関係ない衣装デザインへと傾向を変えました。

ミュンヘン・オリンピック(1972年)

1972年にドイツで開催されたミュンヘン・オリンピックでフランス選手団のユニフォームをクレージュがデザインしました。開会式の映像をみますと、特に女性の服装は格好良く仕上がっています。

他の諸国のユニフォームが男女ともボタンであるのに対し、フランスは女性のみですが白色のファスナーを大胆に使っています。

ふつう、ボタンよりもファスナーは軽々しく思われるものですが、シンプルに決まっています。

配色をみますと、白地に赤色のパイピングだと安っぽくなりますが、 クレージュは逆にして赤地に白色のパイピング。フランス女性選手団のユニフォームはかなり際立っています。

26分30秒あたりから女性選手団の衣装がアップされます。その場面をよくみますと、上がジャケット、下がスカートの組み合わせ。さらにジャケットの中に配色の同じシャツを着ています。

つい、中はロングのワンピースかと思いますが、それだとスカートのファスナーが腹部あたりで終わってしまう奇妙な服になるので、この赤地に白色のパイピングの衣服は2点ではなく3点で構成されていると考えられます。そして、帽子も同じ配色。赤色地の帽体外側の下方に白線を2本引き、裏地は白色。

他のアイテムをみましょう。

ナイロン・ストッキング、モカシン風のローヒールの靴、手袋、バッグは白色で統一しています。

全体的な感想は、お出かけ衣装にデザインした中にファスナーを入れてスポーティにした逆転の発想が面白いと思いました。

自社工場の展開

1976年春には、1967年に採用した3部門をオート・クチュールとプレタ・ポルテの2部門に修正し、プレタ・ポルテ、アクセサリー、雑貨類でも自分の商号をつける商品を全て直営工場で製造する体制を採用。

オート・クチュールの理念である高品質を守りながら、同時にモードの大衆化をも推進する姿勢を採りました。

これまで生産はアンドレ・クレージュの故郷フランス南西部のベアルン地方の下請業者に委託していましたが、後に同地に自社工場を設置します。ポー工場です。

この頃、オート・クチュール組合に属する企業のプレタ・ポルテ部門で全工程の自社生産を行なっていた企業は皮肉にも ニナ・リッチ社とクレージュ社の2社だけでした。

1973年の石油危機までは順調に進行しました。石油危機によってクレージュ社はストライキによる納品遅延を発端に徐々に完全管理の牙城が崩れていきます。

それでも、1975年にクレージュ社はフランス国内だけでセーターを75万着、布帛製品を6万点製造しました。1970年から1976年にかけてクレージュの店舗はアメリカだけで28店に広がりました。

針子さんや縫製工が作業するかたわらに、マネキンやミシンが並んでいます。©Courreges / DR, ディディエ・グランバック『モードの物語―パリ・ブランドはいかにして創られたか―』古賀令子監修、井伊あかり訳、文化出版局、2013年、130頁

1980年代以降

1965年以降、長い提携関係にあったロレアル社との関係の見直しが82年に行なわれ、コレクションの発表ができずに1986年からは裁縫店の呼称を失うなど、クレージュ社の1980年代は困難な時代でした。

ちなみに、1980年代にはヨーロッパの衣料品業界で最高品質だと認められるようになった国は既にフランスでは無くなり、イタリアでした。

1993年には提携会社イトキンへ譲渡した会社経営権とブランド権利を買い戻し、同年から翌1994年の2シーズンにはカステルバジャックによるコレクションを再開し、1996年には香水クレージュのブランド権利を買い戻し、1997年には香水「2020」を発売。

このように、1990年代にクレージュ・ブランドの建て直しが始まりました。

「ヴォーグ」オランダ版の特集「2017年春夏 ゴーゴー・ブーツ」。ジェン・ケァリー・スタジオ(Jen Carey Studio)撮影。ハンナー・ヴァン・ウェル(Hannah van Well)装飾。クレージュ社「ボンジュール・クレージュ」から。courreges bonjour courrèges | Spring Summer 2017 gogo boots featured in @nlvogue. Photography by @jencareystudio, styling by @hannahvanwell. #courreges©Courrèges

アンドレ・クレージュ : 作風と配色

アンドレ・クレージュの作風は簡潔性と機能性にあり、配色はコントラスト(対照性)にあります。

そのため、膝上丈のスカートローヒールの靴が中心になり、彼の好きな白地に他色のストライプが基本形になります。

クレージュの作風 : 裸のような着衣

クレージュ・ルックはスパッと切れた切り口と短さが特徴です。ブーツは脚の長さに対応します。“Life”, May 21, 1965, p47.

クレージュ自身、「ハイヒールは馬鹿げている」「ブーツはハイヒールよりも女性を解放するし、より合理的で論理的でもある」と考えていて、その合理性こそが美だと述べています。

なお、この発言から、1960年代頃のブーツのヒールが低かったことが分かります。

1967年頃にアンドレ・クレージュが制作したゴーゴー・ブーツ。André Courrèges, Boots ©André Courrèges | Boots | French | The Met

クレージュの持論は、女性は裸であるときが一番美しいということです。

建築の勝利を喜ばせる女性は決して美しくはないということです。

その上で、デザイナー(裁縫師)は何をすべきかを考えなければなりません。この考え方は、パリのファッション業界のトップに位置するクレージュが自身の属する業界に対する忘恩のように聞こえます。

この発言からわずか3年後、宇宙時代の衣服を牽引する裁縫師として世界中で有名になり、膝頭をファッション要素に取り入れたのです。

そして、パリでは自作品が700ドル以上の原価を誇るようになり、建築学の影響を受けたデザインの栄光を堪能しました。米国では彼のコピー品があらゆる価格で販売されるようになりました。

アンドレ・クレージュのミニスカート。Photo by Willy Rizzo, 1966. via Swinging Sixties « Notes from the Styleshack…

先の忘恩は本当にそうなのでしょうか。

クレージュは同時代の女性たちの概観が古臭いと考えていて、19世紀までの鯨骨のコルセットと同じくらい、10年以内にはハイヒールもブラジャーも脱ぎ棄て忘れ去ることを手伝いたいと考えました。

クレージュのモデルにグラマーな女性は使われません。その上、そもそも彼の作品に乳房を強調するようなデザインもありません。

クレージュには、19世紀までのコルセット、1930年代から立体的に隆起し始めたブラジャー、第2次世界大戦後に復活したエー・ライン(A Line)などのファッション史に対する抵抗を女性解放の観点から推進したことがはっきりと分かります。

クレージュの次の発言をみましょう。

古代のギリシァ、エジプト、ローマの女性には選ぶべき運命は2つしかありませんでした。娼婦か母かです。ですから、女性たちは暑い化粧をしました。論理的に、女性たちがしなければならなかったのは男の注意を引くことでした。でも、4,000年後に同じ化粧をするのはどうですか? 馬鹿げていますね。18世紀の女性を見て下さい。彼女たちは自分の髪の毛を逆立て、ブリジット・バルドーが夢にも思わなかった高さまで髪を立てたのですよ。でも、マリー・アントワネットとその愛好者たちが着た巨大なスカートは巨大な頭と小さな体のバランスを取り戻しました。論理的アプローチがここにも見えます。でも、今日ではちっぽけで痩せこけた体に巨大な頭部が乗っかっているとどうですか? ばかばかしいでしょ。Life”, May 21, 1965, p.54, p.57.

このようにクレージュは、長期的視野も持ち合わせた上で、衣服設計を行なっていました。

この視野は、19世紀までのコルセット、1930年代以降のブラジャー、第2次世界大戦後のエー・ラインという短期的視野と融合し、1960年代という時代とクレージュの特徴をさらに強めています。

クレージュの配色 : 白色と明色、組み合わせと膝露出

アンドレ・クレージュは白色が好きで、きつい対照の色を頻繁に使いました。

次の写真はクレージュのファッション・ショー歴で最初のモデルを写したもの。

短いサン・スーツ の前に、スパンコールを散りばめた自動車レースの旗を掲げています。靴も含めてが紅白で統一されています。

サン・スーツとスパンコール付き自動車レース・フラッグ、ピエール・ブーラ撮影。sun suit with auto racing flag of sequins © André Courrèges, photographed by Pierre Boulat, “Life”, May 21, 1965

次の写真はパリの路上で写されたものです。

2点のジャケット・ドレス。

左の作品は白地に赤のストライプを施した長袖ジャケットに、紅白のストライプを描いたスカート。

右の作品は赤地に白襟を付け、スカートは白一色と、組み合わせに対照性を持たせています。

赤と白の色合いが鋭いコントラストのジャケット・ドレス2組。アンドレ・クレージュ、ピエール・ブーラ撮影。「ライフ」誌1965年、5月21日、48頁。sharply contrasting two jacketed dresses with white and red hue. © André Courrèges, photographed by Pierre Boulat, “Life”, May 21, 1965, p. 48

次の写真もパリの路上で写されたものです。

上の写真の向かって右側の女性がモデルです。白地に黄色のパイピングを施したミニ・ドレス、袖無し(ノースリーブ)です。

イエロー・ストラップ・ガール。アンドレ・クレージュ作、ピエール・ブーラ撮影。「ライフ」誌、1965年5月21日、48頁。Yellow Strap Girl, © André Courrèges, photographed by Pierre Boulat, “Life”, May 21, 1965, p. 49

以上の3点はいずれもクレージュの特徴的なコンパクトで対照性の強いデザインになっています。そして膝は必ず出ています。

クレージュは美しい膝がどれほど珍しいことかを女性に示そうとしました。クレージュのいう美しい膝とは太腿線から直線に続いていて、オー脚(O脚)とは大きく違います。

私はこの写真のモデルをイエロー・ストラップ・ガールと名づけて、誰だったのか調べ続けていますが、分かりません…。

「VOGUE France」1973年5月号から

アヴォリアズでスキーをするクレージュ

クレージュの作品には必ず白色部分が大きく占めています。

彼は大の白好きで、雪もまた好きでした。
それが嵩じて1973年3月5日に翌年用スキー・ウェアのコレクションをフランスのアヴォリアズ(Avoriaz)で開きました。ここはスイスとの国境付近で、レマン湖の南側に位置する街です。

アヴォリアズでスキーをするクレージュ via Vogue France, No.536, 1973, Mai, p6. ポール・モンティア(Paul Montir)撮影。アンドレ・クレージュ被写体。

このコレクションでは、80人のジャーナリストを招待し、マイユ・ライン(Maille Line)、スキー・ライン(Ski Line)、ビニール・ライン(Vinyl Line)から合計40点のスポーツウェアを発表しました。

最初にスキーボブ競技会が行われ、クレージュはモデルたちと一緒に参加し優勝。

その後、スローライド、斜面の頂上にあるテラスでランチ、午後はホテル四季(Hôtel des Quatre Saisons)で美容会議が行なわれました。

この会議のテーマは40歳の女性。その後、レ・ドロモントへパレードし、 ピカレットのキャンドルライト・ディナーと続きました。

ジャクリーン・ビセットの着るカーディガンとパンタロン

次の広告は同じ雑誌「ヴォーグ」フランス版から「ジャクリーン・ビセット(Jacqueline Bisset)の着るカーディガンとパンタロン」。

クレージュ社が「ヴォーグ」フランス版、第536号、1973年5月の102頁・103頁に掲載した「74年スキ―・モード : クレージュ雪のコレクション」の作品です。当誌には2頁にわたりクレージュの作品が紹介されています。

アンドレ・クレージュのカーディガン&パンタロン via Vogue France, No.536, 1973, Mai, p102. トニー・ケント(Tony Kent)撮影。ジャクリーン・ビセット被写体。

外出先の問題を取り除く驚くべき解決策、 ポロやブラウスにカーディガンとパンツをぶら下げましょう。

白色の綿製のサテン地ブラウス、白く淡いプリントのついた綿製のパンタロンの上に、右袖にロゴのクレージュをもつウール製ニット地のカーディガン。カーディガンはクレージュ・マイユ(Courrèges Maille)。ブラウスとパンタロンはクレージュ・コットン(Courrèges Coton)。

次の作品をみましょう。

右袖にクレージュのロゴが刻印された黄色のウール製ニット地カーディガン、黄色のジャージー地ポロシャツ、黄色のウール製ズボン、カーディガンとポロシャツはクレージュ・マイユ。

パンタロンはクレージュ・ハイパーボール(Courrèges Hyperbole)、ヘアスタイルはジャン・マール・マーシャニス(Jean Marc Marcianis)。

アンドレ・クレージュのカーディガン&パンタロン via Vogue France, No.536, 1973, Mai, p103. トニー・ケント(Tony Kent)撮影。モデルはジャクリーン・ビセット

これらの作品から、クレージュは白色を基調に、ニット素材を重視していたことも分かります。スポーツウェアにクレージュが力を入れたのは、その典型です。

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