ユベール・ド・ジバンシー:ヘップバーンの衣装を数多くデザイン
ユベール・ド・ジバンシー(Hubert de Givenchy)は、1927年にフランスのオワズ県ボーヴェに生まれたファッション・デザイナーです。
表記がややこしいですが、ジバンシィ、ジヴァンシー、ジヴァンシィとも。
ヘップバーンの衣装を数多くデザインしたことで有名です。
5歳のとき家具会社の重役だった父と死別したため、祖父のもとで育ちました。祖父はコローの弟子で、ゴブラン織業界の指導的立場にあり、タペストリー工場を経営していました。ジバンシーは大胆なスタイルでオート・クチュールを席巻したモードの神童と呼ばれます。
1950年代・60年代にはオードリー・ヘップバーン映画の衣装デザインを数多く担当しました。ヘプバーンはジバンシーに公私にわたり衣装をデザインしてもらっていました。一度だけ自分の好きなジバンシーを放棄し、マリー・クワントが「オードリー・ヘプバーンの映画衣装をデザイン」したことがあります。
下積みから独立へ
法律家になるための教育を受けていましたが、ジバンシーはクリストヴァル・バレンシアガに憧れてパリへ移ります。
美術学校(国立高等美術学校)在学中の17歳のとき、デザイン・スケッチをジャック・ファットに見せる機会を得て認められ、彼の店でデザイナーとしての活躍をはじめました。
その後、ロベール・ピゲ、ルシアン・ルロンの店を経て、エルザ・スキャパレリのメゾンへ。そこでエルザ・スキャパレリの右腕としてモデリストに登用されました。
4年間ヴァンドーム広場のブティックを全面的に任された後、1952年にユベール・ド・ジバンシーは独立し、コレクションを開催しました。ワイシャツ地で作成したドレスを発表。同年、モンソー公園に面した古い屋敷のサロンを借りて独立。自分の名で店舗を開店しました。開店時はとても多忙だったためフィリップ・ヴネに協力を要請し、ジバンシー店の主任テーラーに任命しました。
独立後の展開 : ジバンシー最初の作品以降
ジバンシー最初の作品は、大半が安価なワイシャツ用の木綿製。胸開きの広いシャツ、ブラウスや、大きく広いデコルテと膨らんだ袖のブラウスをスカートと組み合わせたセパレーツ(朝から夜までの)。
これはモダンで新鮮なアイデアとシャープな均衡感覚が賞賛され、ユベール・ド・ジバンシーは24歳にして「モードの神童」と呼ばれました。2ヶ月後ニューヨークで開かれた慈善舞踏会「パリの4月」では当初のアバンギャルドな作品とは異なり、エレガントな夜のドレスを展示。
さらに、1953年春のコレクションで、ジバンシーは角形の広いアームホールのノースリーブ・ドレスや、トマト・グリーンピースなど果物・野菜のプリント・ドレス、他にはチュニック・ルックなどを発表。
同年秋には、ツイード製のプレーンでスリムなシュミーズ・ドレス、1955年にはシャツ・ドレスや、有名なサック・ドレスなどを立て続けに発表。ジバンシーは、シンプルでスポーティな感覚の洗練されたエレガンスを生みだしました。
クリストヴァル・バレンシアガとの遭遇
ジバンシーの作品は、クリストヴァル・バレンシアガに比肩する高度な技術とオーソドックスなデザインが特徴。1953年秋のシュミーズ・ドレス以後、ジバンシーは同じスタイルを追求・洗練しました。
このスタイルはアメリカで賞賛され、スレンダー・ルック、1957年春以降のソフトなラインのモノはサック・ドレスと呼ばれました。しかし、身体の自然なラインを強調した新しいスタイルは、当時なおクリスチャン・ディオールの影響下にあったパリでは賛否両論でした。
ジバンシーが、最も尊敬するデザイナー、ジョルジュ・サンク街にあるクリストヴァル・バレンシアガの店の向かいに自店を移転したのは1959年のことです。1960年からは、ダブル・フェイス(二重織り)の織物に熱中し、芯も裏もない多様なプロポーションのコートやアンサンブルを作りました。
そのうち、肩から背にかけてボリュームのある、袖でつぼまりぎみになったコートは、1960年代の代表作。伝統的ですが、ラインがシャープで、独特な繊細なセクシーさとモダンな色彩感覚が現れています。
その後、ジバンシーは、コブラ皮のレインコート(1963年秋)、全面刺繍のマイヨー(タンクトップ風のアンダーウェア)と前で開いたロング・スカートや、トランス・ペアラントな夜のジャンプ・スーツ(ともに1968年秋)などの大胆な作品を発表していきました。
プレタ・ポルテへの進出と映画衣装の担当
1956年の春、ジバンシーは業者と提携してリゾートウェアのプレタ・ポルテに進出。映画衣装を手がけはじめたのも、この頃からです。映画衣装ではジバンシー自身もファンだったオードリー・へップバーンの担当が有名。女性らしいエレガントな作風はオードリー以外にも多数の女優に愛されました。
映画「サブリナ」用にヘップバーンの衣装を担当したことでジバンシーは映画界でも有名になりましたが、当初はデザインすることを拒否したそうです。
オードリーが私のところへやって来て、映画サブリナのためにドレスを作るように頼んだとき、私は彼女が誰だったか分からりませんでした。私は、キャサリン・ヘップバーンだと期待していたのです。(ジバンシーはオランダで自分の新しいコレクション向けに感情をこめて記者会見に臨みました)彼女は綿のズボン、バレリーナ・フラット(靴)、Tシャツを≪幼い女の子≫のように身に着けていました、藁のゴンドラ帽子を持って。彼女はとても傷つきやすくとても優雅で若く輝いていました。 via To Audrey with love: Hubert de Givenchy’s tribute to the timeless diva | fashion and trends | Hindustan Times
ジバンシーは1968年、プレタ・ポルテの「ジバンシー・ヌーベル・ブティック」を開設。メゾン内の他、ビクトル・ユゴー街にもブティックを開設しました。デザイン分野は、インテリア、香水、帽子、バッグ、靴、手袋などのアクセサリーにおよび、男性化粧品なども手がけ、ビジネスとしても成功しました。
この頃、ジバンシーは日本にも少しお店を出していたようです。
ジバンシイ・ヌーベル・ブティック
次の画像は「ジバンシイ・ヌーベル・ブティック」が「婦人画報」に出した広告です。
パリから届く、洗練されたシンプルさ――
ジバンシィの創作をあつめて
出典 「婦人画報」1975年1月号、231頁。
と記されています。
ジバンシイ・ヌーベル・ブティックは、ジバンシーの作るプレタポルテの作品が、パリのブティックと同じ雰囲気で並べられたストアだったようです。
素晴らしいエレガンスに出会えると自信に満ちた宣伝文。原宿・パレフランス2階に店舗はありました。このビルは2003年に閉館されたようです。
取扱製品をみますと、まさにプレタポルテというか、もはや衣料品雑貨…。
コート、ドレス、スーツ、セーター、カーディガン、ジュエリー、スカーフ、ベルト、バッグ、ストッキング、ハンカチーフ、ジバンシィ・ジェントルマン、ジバンシィ 香水。
店舗所在地の詳細や多店舗情報もあるのでピックアップしておきます。
東京都渋谷区神宮前1丁目 東郷文化会館(パレ・フランス)2階
また、大丸(大阪店・東京店・京都店・神戸店)、そして天満屋(岡山店・広島店)、ロイヤルホテルアーケード内(大阪)にジバンシィ・ヌーベル・ブティックがございます。
出典 「婦人画報」1975年1月号、231頁。
1978年、デ・ドール賞を受賞。
作品例
下の写真は1973年ヴォーグに掲載されたジバンシーの作品です。
左は白と紺のストライプ、クレープデシンを使ったローブ。右は白地に紺色のリボンを衿、裾、ベルトに使ったローブ。
引退後
1995年の引退後、ジバンシーのメゾンはアレキサンダー・マックイーンが後継デザイナーとなりました(1997年~2018年)。
2018年3月10日にジバンシーは睡眠中に死去。長年パートナーを務めてきたフィリップ・ブネ氏が同月12日に明らかにしました。晩年にジバンシーは最近のモード界のデザインやファッションが下品だと嘆いていました(「ジバンシィ」創業者、現代のファッションは「下品」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。
晩年のジバンシーはポール・マッカートニーに似た物腰の柔らかい雰囲気を漂わせていました。この10年でモード界の第1世代がごそっと去っていきました。 リバイバルしか出来ない時代が本格的に始まりました。
関連図書
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フィリップ・ホプマン「ジバンシィとオードリー:永遠の友だち」野坂悦子訳、文化出版局、2019年
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ドルシラ・ベイファス「VOGUE ON ユベール・ド・ジバンシィ」VOGUE ONシリーズ、和田侑子訳、ガイアブックス、2014年
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