クリストバル・バレンシアガ
クリストバル・バレンシアガ Cristobal Balenciaga は1895年にスペインのバスク地方の漁村ゲタリアに生まれたファッション・デザイナーです。お針子をしていた母の影響で、幼い頃から仕立に興味を持ちました。裁断と縫製は独学。
20世紀になり、14歳のとき、カサ・トレス侯爵家で見た侯爵夫人のスーツをパリ風に真似たのがきっかけで、婦人は彼のパトロニエ(女性のパトロン)として資金面を援助するようになる。15歳で独立。セシル・ビートンはスペイン人のクリストバル・バレンシアガを「クチュール界のピカソ」と呼びました。
独立数年後の倒産
マドリードのテーラーを経て、1915年にサン・セバスチャンにメゾンを開く。1928年、本拠地をマドリードに移し、バルセロナにもメゾンをオープン。3店は「エーザ」(Eisa)という名のメゾンであった。その後1931年のスペイン内乱(スペイン革命)によって全店を焼失し、貴族中心の従来の顧客からほとんど注文を受けなくなったこともあり倒産。
パリで再び開店
市民戦争で疲弊したバレンシアガはロンドン経由で1937年にパリに移る。そこでは、ジョルジュ・サンク通りにメゾン「バレンシアガ」を開いた。スペインの画家、ゴヤやベラスケス調にパリのエレガンスをまじえたような作品で、一挙に一流デザイナーにランクされた。
ディオールより先にニュー・ルックを発表
1938年には、クリスチャン・ディオールの「ニュー・ルック」の先駆けとなるスタイル「ゲピエ・ルック」を発表。その後もペンシル型のスリムなパネル・スカート(1948年)や、1950年代にはウェスト・ラインをもたないストレートな「バレル・ルック」、シンプリシティを追求したシュミーズ・ドレスの「サック・ドレス」などを続々と発表。
当時、女性らしさを回顧的なモードで表現していったクリスチャン・ディオールに対し、クリストバル・バレンシアガは、厳しいシンプリシティを推進し、社会生活のインフォーマル(略式)化に対応するスポーティなラインを開拓した。
1960年代のカジュアル化
1960年代になると、作風は、若々しく、一層、プラクティカルなものとなる。膝頭の下までの革のブーツ(1962年)、バトル・ドレスや毛糸の柄編みストッキング(1963年)、組み替え可能なコントラスト・カラーのチュニック・ドレス、毛皮の変わりにマルチ・カラーの毛皮の束を利用したコート(1967年)などが代表的な作品だ。
人前に出たがらず、宣伝嫌いでもあった彼はジャーナリストの横暴をさけて、1956年以降、プレスをシャットアウトしたが、新聞、雑誌は「デザイナーの王様」という讃辞を呈し続けた。
引退
メゾンからは、ユベール・ド・ジバンシー、アンドレ・クレージュ、エマニュエル・ウンガロらが輩出されたが、プレタ・ポルテ時代の到来によってメゾンは改革を余儀なくされた。
1968年のパリ5月革命の後、突如30年余の伝統のあるメゾンを閉鎖し、クリストバル・バレンシアガはモード界から引退した。引退の名言「プレタに乗り出すには、あまりにもクチュールを知りすぎた」は、業界で印象深く記憶されている。
1972年にスペインの故フランコ将軍の孫娘のためのウェディング・ドレスを制作したのを最後に、翌1973年に死去。
没後の店舗
その後、弟子の一人、フェルナンド・マルチネス(スペイン人)がパリの同じ場所でプレタ・ポルテ「バレンシアガ」をオープン。個人のグリフを再開した。
1986年にジャン・パトゥのメゾン出身のデザイナー、ミッシェル・ゴマ、1993年からはジョセフュス・メルキオール・ティミスターがデザイナーを務めた。現在は、ゴルチエのメゾンで経験を積んだフランス人デザイナー、ニコラ・ゲキエールが主任デザイナーとして就任している。
作風
クリストバル・バレンシアガが、アメリカで第1回のコレクションを催したのは、1939年。ベラスケス調の作品で人気を博し、世界的に名が知られるようになった。彼は、人間嫌いで、常に格調の高い独自な作品を発表し続けたが、あらゆる衣服のデザイン、裁断、縫製、フィッティングができるという、比類のない技術に支えられていた。
また、自分の特殊な技術やデザインが外部に漏れることを嫌い、デッサンを行なわずに直接マヌカンに生地を纏わせて裁断するという技法で服作りを行なったのは有名である。
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