ハナヱ・モリ(森英恵):シネマ全盛期に衣装デザイナーでブレイク

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ハナヱ・モリ(Hanae Mori/森英恵)は、1926年に日本の島根県に生まれたファッション・デザイナー。

1950年代のシネマ全盛期に数百本におよぶ映画衣装を手がけました。顧客には、グレース王妃、ナンシー・レーガン、ソフィア・ローレン、月丘夢路など。

東京女子大学国文科卒業。1948年に森賢と結婚。その後、ドレメ(ドレスメーカー女学院)で学び、1951年に新宿でスタジオ「ひよしや」、1954年に銀座でブティック&サロンの「ハナヱ・モリ」を設立しました。

日本出身のデザイナーで唯一、パリ・オートクチュール組合の会員になったことがあります。

最初のパリ・コレクションでは、得意の蝶々や友禅風のプリントドレスを披露し「マダム・バタフライ(『蝶々夫人』)」や「東洋的ファンタスティックなモード」を導入したとして評価されました。

1950年代 : シネマ全盛期に多数の映画衣装を担当

「ひよしや」「ハナヱ・モリ」と設立を進めている間に、森英恵は日活を中心に映画衣装をどんどん引き受けました。

当時の日本には映画会社が6社あり、日活をバッシングする五社協定が1953年に結ばれていましたが、森のところには日活以外の会社からも映画衣装の仕事がたくさん舞い込んできました。

五社協定とは東宝・松竹・大映・新東宝・東映の5社の首脳部間で秘密に締結されたもので、俳優や女優の争奪を禁止しようとしたものです。独占禁止法違反になるため暗黙裡に結ばれた協定ですが、映画界では公然の秘密となっていました。『日本映画女優史』では東宝・松竹・大映・日活・東映の5社とされていますが(221頁)、日活は新東宝の間違いで、日活が弾かれたという森英恵の記憶の方が正確です。

月丘夢路と北原三枝

1957年に公開された中平康監督「街燈」は主演に月丘夢路、南田洋子らを据え、森英恵が衣装デザインを、「ひよしや」が衣装提供を行ないました。

月岡夢路は日活初期の大女優でした。

主役になることの多い月岡はアップが重要となり、それを引き立たせるために森は衿元や袖口の見せ方、さらにキャラクターを強調する服作りと生地選びにかなり神経を使ったといいます(森英恵『ファッション―蝶は国境をこえる―』岩波書店、1993年、50・51頁)。

また、当時最も多く一緒に仕事をしたのは北原三枝。

北原は宝塚から映画界に入った女優で「東京の人」がデビュー作。のちに森は「嵐を呼ぶ男」や「狂った果実」で北原の衣装を担当していきます。

小津安二郎と岩下志麻

森英恵が小津安二郎の映画で衣装を担当したのは小津の晩年。

衣装デザインは小津組の助監督たち(篠田正浩ほか)と綿密に話を詰めて仕事を進めました。

小津は確固たる美意識にもとづいて映画撮影をしたので、衣装にも細かい直しがよく入ったそうです。

ふつうならコットンのブラウスだと衣装部屋へ行って探して着るだけなのです。

でも、小津はステンカラーの白色ブラウスですらオーダーメイドするという徹底した姿勢だったと篠田が述べたことを森は振り返っています(森英恵『グッドバイバタフライ』文藝春秋、2010年、64・65頁)。

そんななか、松竹映画に彗星のごとく現われ、森の度肝を抜いたスタイル抜群の美人女優が岩下志麻でした。森は岩下を「洋服が似合う骨格なのでデザインしやすかった」と述べています(森英恵『グッドバイバタフライ』67頁)。

1962年公開の「秋刀魚の味」などで森は小津・岩下コンビの作品で衣装デザインを担当しました。なお、篠田正浩監督作品では2003年公開の「スパイ・ゾルゲ」で衣装をデザイン。

1960年代 : プレタ・ポルテ部門で創業

1963年、日本でプレタ・ポルテ部門「ヴィヴィド」社創業。

大衆ファッションへの関心が高まった1950年代後半から1960年代にかけて、まだ未開分野だったプレタ・ポルテを確立しました。

1965年にニューヨークで初の海外コレクションを発表し、「東洋と西洋の出会い」と称賛されました。これを受けてニーマン・マーカスをはじめとする高級百貨店で販売に成功します。

彼女の活躍の視野は欧米に留まりませんでした。

1968年にはインド手工芸織物輸出公団(The Handicraft & Handlooms Exports Corporation of India Ltd.)とデザイン契約を結び、同公団から「ハナヱ・モリ・メイド・イン・インディア」コレクションを発表しました(Hanae Mori Made in India Collection)。

この契約は1970年代まで続きました。

1970年代 : 本格的な海外進出

1970年にニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに「ハナヱ・モリ・ニューヨーク」をオープン。

1973年にニューヨークのセブンス・アベニューにショールームを設置。

1974年にはロンドンに上陸、次いでスイス、ドイツ、ベルギーにもセールス・ポイントを拡大します。この時期に、夫の経営サポートとともに、ハナヱ・モリ・グループは大きくなりました。

1975年11月、グレース公妃の招待によりモナコでファッション・ショーを行ない、その帰途、パリでもホテル・モリスで初のコレクションを開催しました。

次のブログは「ヴォーグ」誌1976年6月号(米国版か?)に掲載された Hanae Mori の広告を紹介しています。「Vintage Adverts: The butterfly beauty of Hanae Mori | get some vintage-a-peel」(外部リンク)

1976年「ハナヱ・モリ・インターナショナル」を設立。

1977年にはパリのモンテーニュ通りにオート・クチュールのメゾンをオープンして、初のオート・クチュール・コレクションを発表。

このパリ・コレクションでは、得意の蝶々や友禅風のプリントドレスを披露し「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」や「東洋的ファンタスティックなモード」を導入したとして評価されました。

この年、サンディカ(パリ・オートクチュール組合)に加盟を果たしました。

1978年にはピエール・カルダンとともに、中華人民共和国上海市丝绸进出口公司(中国上海市絹織物輸出入会社)の経理だった蒋志铮女史から中国ファッション産業の開発に協力要請を受け、1980年代にかけて技術協力を行ないました。

この頃、北京市纺织品进出口公司(北京市紡織品輸出入会社)にも協力しました(森英恵『あしたのデザイン』新潮社、1982年、258頁)。

その後、オリンピック日本選手団や日本航空の制服を手がけるなど、日本の代表的なデザイナーとして評価が内外に定着。

1990年頃

1989年に東京で衣裳展「森英恵展」を開催し、35年以上にわたるデザイン活動を記念しました。翌1990年にはパリとモナコでも開催。

1993年、40年間のデザイナー人生をまとめて、流行論、男女論、ファッション論として著書『ファッション―蝶は国境をこえる―』(岩波書店)を刊行しました。

この著書の「おわりに」にはとても興味深いファッションの展望が述べられています。

人間の体は立体的で丸いのに、私たちの仕事は平面に織った布地を扱って、切ったり、ダーツを入れたり、細かくいせこんだりして体の丸みにそわせる。これがドレスメーキングの起訴で、この技術のよしあしが仕事の出来・不出来を決めたのである。
プラスチックやガラスの器などを眺めて思うことなのだが、私たちは天然繊維にこだわり過ぎているのではないか。かつては、化学繊維は常に天然の絹やもめん、羊毛などの代用品に甘んじてきた。ここまで科学が進んできたわけだから、天然のものをこえる繊維、便利で美しい合成繊維が生まれてもおかしくはない。21世紀には、縫わない衣服がつくられていくのではないか。森英恵『ファッション―蝶は国境をこえる―』岩波書店、1993年、219頁

自分がこれまで携わってきたドレスメーキングを全否定するような21世紀が迫りくることを、森英恵は予兆していたように思います。

1990年代~2000年代 : 非アパレル部門での多角経営の失敗

このような予兆は経営面にすぐさま現われました。

ハナヱ・モリは1990年代に飲食部門などの多角経営に乗り出し、失敗に終わります。

2001年末、プレタ・ポルテを含むライセンス事業を、三井物産などに売却すると発表。

「ハナヱ・モリ」としてはオートクチュール部門で生き残る再建策を発表したものの、債権者の了承を得られませんでした。

2002年3月、プレタ・ポルテ部門を三井物産とロス・チャイルド・グループへ売却。プレタポルテ事業に関しては、婦人服製造卸のオールスタイル株式会社が引き継ぎました(ハナエモリドゥ)。

同2002年5月30日にオート・クチュール部門の「ハナヱモリ」(東京都渋谷区)が、民事再生法の適用を東京地裁へ申請し、倒産。負債総額は101億円(帝国データバンクによる)。

社長に石坂公之助を迎え、森英恵自身は新会社「ハナヱ・モリ」(東京都港区)で、次男の森恵も加えてオート・クチュール事業を継続します。

「NIKKEI NET:ベンチャー」では2002年12月10日付で≪アパレル分野への投資体制を整備・三井物産≫と題し、三井物産がアパレルへの投資体制を整えるために、自社繊維部門に投資事業室を新設し、これを投資専門の部署とした内容が詳しく記されています。

同年9月に改装したハナエモリ表参道店(東京都港区)の写真も添えられています。

参考「アパレル分野への投資体制を整備・三井物産」(外部リンク)

2004年 : 引退

2004年7月7日、04秋冬オート・クチュール・コレクションを最後に引退。

ショーでは、ドビルパン仏内相夫人をはじめとする有名人が多数詰めかけ、コレクションでは珍しいスタンディングオベーションで迎えられました。

このコレクションで公開した作品は、歌舞伎役者の描かれたロングドレス、縮緬生地に日本風の花がプリントされたスカート、日本の帯を意識したベルトや簪(かんざし)などで、これまで以上に日本を意識したものが多くありました。

今期にファッション・ショーを開いたのはわずか9ブランド。その内の一つとして、オート・クチュールの衰退を象徴する引退でした。これを機にパリをはじめとする店舗の多くを閉店しました。

引退後の展覧会

引退後は各地で展覧会が催されています(「ブランドヒストリー|HANAE MORI OFFICIAL SITE | ハナエモリ公式サイト」より)。

  • 2006年…東京・パリで衣裳展「森英恵 手で創る」(2007年に島根)
  • 2009年…水戸・東京で「手で創る 森英恵と若いアーティストたち」展
  • 2012年…東武百貨店池袋店美術画廊で「手で創る 森英恵オートクチュールの世界」展
  • 2015年…島根県立石見美術館で「HANAE MORI HAUTE COUTURE 森英恵―仕事とスタイル」展

デザイナー 天津憂の起用

三井物産株式会社の100%子会社である株式会社ハナエモリ・アソシエイツが全世界の商標権を保有している「HANAE MORI」は、デザイナーの森英恵氏が銀座にブティックをオープンしてから60年目を迎えました。その記念すべき2014年の10月13日に、東京コレクションで活躍する天津憂氏をデザイナーとして起用した新ライン「HANAE MORI designed by Yu Amatsu」を東京コレクションのオープニングショーとして発表しました。トピックス | 「HANAE MORI」がデザイナー天津憂を起用した新ラインを発表 – 三井物産株式会社

関連リンク

森英恵の本

2018年10月28日

森英恵『ファッション―蝶は国境をこえる―』岩波書店、1993年(絶好調期の自伝)

森英恵『グッドバイバタフライ』文藝春秋、2010年

今日アマゾン古書から到着。

東洋の蝶々(バタフライ)といわれた日本のファッション・デザイナー森英恵(もりはなえ)の著書。

大阪の私立高校では四天王寺高校の制服をデザインしたことがあります。

対照的な書名の2冊が同時に着いて少しテンション上がりました。

2018年11月1日

今日は文庫本が到着。

森英恵『あしたのデザイン』新潮社、1982年。

これは67のテーマをそれぞれ3ページずつにまとめたエッセイ。

森英恵がパリ、ニューヨーク、上海、北京で美味しいものを食べおしゃれな街路をみて、これらの都市をこよなく愛したことが伝わってきます。イラストはサトウサンペイ。

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いろんなファッション歴史の本を読んで何も学べなかった残念なファッション歴史家。パンチのあるファッションの世界史をまとめようと思いながら早20年。2018年問題で仕事が激減したいま、どなたでもモチベーションや頑張るきっかけをください。

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