イヴ・サンローラン
イヴ・サンローランは1936年にアルジェリアのオランで生まれたフランス人ファッション・デザイナーです(2008年没)。
20世紀後半の世界的ファッション・リーダーの1人とされ、ディオール2世やモード界の帝王とよばれたパリのオート・クチュリエ(裁縫師)。
オート・クチュール組合付属のクチュール学校を抜群の成績で卒業。
経歴と就職
早い才能開花
1954年、国際羊毛事務局(IWS、現ウールマーク・カンパニー)主催のデザイン・コンテストのドレス部門で第1位入賞。
これをクリスチャン・ディオールに認められ、18歳でディオールの店舗に入店し、デシナトゥール(下絵描き)を担当。1957年秋にディオール急逝の後を受け店の後継者に選ばれました。
1958年1月の第1回コレクションで、台形輪郭(トラペーズ・ライン)の作品を発表して大成功をおさめ、21歳の若さで大ディオール店の面目を保ちました。
この作品はシュミーズ・ドレスのバリエーション(ビッグ・サック・ドレス)に過ぎませんでしたが、床上り50cmという短く若々しいルックが功を奏しました。
次いで、丈をやや元に戻したロング・ラインも発表しましたが、こちらは不評でした。
たび重なる不評
膝頭すれすれの1960年ラインも、他の店舗がヘム・ラインを下げ始めた時期に重なり不評。
1960年秋、太毛糸の帽子やタートル・ネックのセーターと毛皮を組み合わせ、機能的なビート・ルックを発表しました。
しかし、これも時期尚早の感があり不評に終わりました。
独立
同1960年9月に徴兵され、入営中にディオール社から罷免。
病気で除隊後、すでにマルク・ボアンがディオール店の主任デザイナーになっていたため店に復帰せず、それを機会に1962年春スポンチニ街に自店を開きました。
クリストヴァル・バレンシアガの方向に近いエレガントでシックな作品でスタートは成功しましたが、店舗の経営面で危機に瀕します。
しかし、間もなく腕利きの広報マン、ピエール・ベルジェの登場によって危機を脱出。以後、彼の協力でクチュール部門からプレタ・ポルテ(既製服)優先のスタンスに転向しました。
プレタ・ポルテ部門リヴ・ゴーシュの快調
1966年にプレタポルテのブティック「サンローラン・リヴ・ゴーシュ(左岸の意)を開き、クチュール界の左岸進出の先鞭を付け、同名の店を海外の主要都市にまで拡大。
ここには既製服時代の到来を予期するイヴ・サンローランの驚くべき先見の明が現れていたと言われます。
同シーズンのモンドリアン・ルックの成功に続き、マニッシュ・ルック、少女ルック、さらには夜のキュロット・スーツやジャンプ・スーツなど、ミニとパンツを中心に1960年代後半は快調。
この時期は、さらにシースルー、ポップ・アートによる作品、ヌード・ルック、スモッキング・ルック、サファリ・ルックなどの意欲的な作品を次々と発表し、一挙に世界のトップ・デザイナーの地位を築き上げます。
バレンシアガ路線ではフランス・モード界にとどまらず、20世紀モードの方向全体をサンローラン一人で示しているかのような躍進でした。
オートクチュール部門のデラックス化
1970年代にはオートクチュールでデラックス化がみられました。
たとえば1971年春のアワー・グラス(砂時計)型の1940年代ルックからレトロ調、1974年秋のコサック・ルックからフォークロア調、あるいはコスチューム・ルックなど作品が挙げられます。
これらはいずれも、贅沢かつファンタジックな作品で、コレクション毎に斬新なテーマを提出し、世界の女性を魅了しました。
1974年秋のシーズンから本拠地をマルソー通りに移します。「モード界の帝王」とよばれたのはこの時期です。
1980年代末には、ニューヨークのメトロポリタン美術館、パリの衣装芸術美術館などで作品を集大成した「サンローラン展」が催されました。1990年春夏のプレタポルテでは、片方の乳房が露わなドレスを発表し話題になりました。
1990年代以降
20世紀末のイヴ・サンローランの店舗はあわただしかったです。
イヴ・サンローラン社がグッチ社に買収されたのを受け、プレタ・ポルテ部門であるリヴ・ゴーシュのデザイナーはアルベール・エルバスを経て、2001年からトム・フォードが就任。
イヴ・サンローランとイヴ・サンローラン・オート・クチュールの間に資本関係はなくなったものの、同じ経営意志をもって経営にあたることとなり、オート・クチュール部門はサンローラン本人が担当。グッチはイヴ・サンローランのライセンスの大半を更新せずに経営体質の改善を図ることとなりました。
その後、トム・フォードが「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」と「イヴ・サンローラン・ボーテ」のクリエイティブ・ディレクター兼チーフ・デザイナーを担当。
オートクチュール部門を閉鎖し、以後はリヴ・ゴーシュのみの展開となります。しかし、トム・フォードは2004年の春にグッチとの契約が切れるため退任することが決定しました。
最後のオート・クチュリエといわれたイヴ・サンローランは1958年にニーマン・マーカス賞を受賞。
2002年1月22日に行われたパリ・オート・クチュール・コレクションで引退しました。
作風
イヴ・サンローランは、さほど独創的な創造者というわけではありませんが、黒やくすんだ色の使い方が上手く、パンチの効いたタッチと着せ方に特徴があります。
このクチュリエが人気を博するのはこの点です。
また、設計師としての器用さや広がりが大きく、演劇、バレエの衣装を手がけたり、ジジ・ジャンメールやカトリーヌ・ドヌーヴたちの服を、舞台衣装から私用衣装まで作製しました。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォー作品の「暗くなるまでこの恋を」には”Dresses for Miss Deneuve by Yves Saint Laurent”と記され、カトリーヌ・ドヌーヴとイヴ・サンローランの密接な関係を目の当たりにします。
モード史からみたサンローランの醍醐味は、伝統的なエレガンス観念に代えてモードの大衆化時代に相応しい「魅惑(シャルム)」というイメージを導入した点です。
モンドリアン・ドレス : クレージュならどうしたか?
モンドリアン・ドレスはイヴ・サンローランのなかであまりにも有名な作品です。
イヴ・サンローランはカトリーヌ・ドヌーヴのお抱えデザイナーでした。
でもアンドレ・クレージュの方がカトリーヌ・ドヌーヴに合う気がします。
クレージュはシンプルな衣服設計でドヌーヴを際立たせます。
この写真のようにサンローランにも簡潔な設計がありますが、中心ではありません。
このモンドリアン・ドレスの配色は5色ですから多いという印象です。
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