セシル・ビートン(Cecil Beaton)は1904年に英国ロンドンのハムステッド地区に生まれた写真家およびファッション・デザイナーです(1904-1980) 。両ヘプバーンの衣装でアカデミー賞を受賞しています。私としては写真家としての作品がカッコいいと思います。
幼少期からカレッジ退学まで : 演劇への関心
セシル・ビートンは4歳の時に演劇に興味を持ち始めました。
ビートンの父はミュージカル「メリー・ウィドウ」(1908年)の舞台プロデューサーで演劇界の伝説となっていたリリー・エルシー(Lily Elsie)を見に彼を連れていきました。
そこで彼は、ルーシー・ダフ=ゴードン(Lucy, Lady Duff Gordon)の裁縫店メゾン・リュシル(Maison Lucile)製のガウンを着てエルシーが演奏している印象に釘づけになりました。そして10歳の時にビートンは叔母の帽子箱からミニチュアの劇場を作りました。
彼は、演劇雑誌「Play Pictorial」から俳優たちの絵を切り取って、間に合わせの舞台で演技をし、全てのパートを自分で発声しました。
セシル・ビートンはハロー校を卒業し、1922年にケンブリッジ大学のセントジョンズ・カレッジに入学し、3年間通いました。しかし、学術にほとんど関心をもたず、写真と演劇のデザインに注力しました。
1925年にサッカレ原作の「バラと指輪」をカレッジで演じ、ヴォルポーネ(Volpone)の衣装をデザインしました。結局、学位を取得しないままケンブリッジの学校を去り、木材商人の父親の手伝いとして働きました。
写真家として
かといって、オフィス・ワークが得意ではないので、ビートンは生計を立てるために写真撮影をしました。
当初「ブライト・ヤング・シングス」誌の編集者に写真を送り続けていましたが、同誌との契約が切れると同時に、ロンドンの放浪者となりました。その後、1920年代に「ヴァニティ・フェア」誌と「ヴォーグ」誌の写真家に雇われ、珍しい背景にポーズをしたモデルを重ねる独特のスタイルを編み出しました。
ビートンは最終的にコンデ・ナスト・パブリケーションズ(Conde Nast publications)と契約を結び、大西洋の両側で映画スターや社交界メンバーを撮影して同社で独占的に働きました。
1930年に美容誌を出版しました。
セント・ジェームス宮殿の公式写真家
その後、彼はセント・ジェームス宮殿の公式写真家になり、1937年ウィンザー公とウォリス・ウォーフィールドの結婚式を撮影したり、1953年にエリザベス女王の戴冠式を撮影したりしました。
1938年にビートンは雑誌「ヴォーグ」のために作ったイラストで反ユダヤ系のフレーズを加えたことで苦境に陥ります。ビートンはそのフレーズを悪戯ゆえに芸術の域を超えない(政治声明では無い)と主張しました。彼はふとした過ちに自分を責めましたが、同誌を出版していたコンデ・ナスト社を説得できず、彼は解雇されました。
シュルレアリスティックな写真
そのような距離感は1940年代の作品にいっそう強く見られてきます。シュルレアリスティックな写真が増えていくわけですが、その根拠が第2次世界大戦で彼が見てきた壮絶で悲惨な現実だと想像すると、作品は全くシュールではなく、リアリティそのものだということに愕然とします。
この点はマン・レイがシュールを意図してリアルを描いてしまったミスと逆の構図になっています。姉妹サイトに書いたマン・レイのミスはこちらをご参照ください。
もとい、インターネットや本から3点を紹介します。
Cecil Beaton’s rare war photography – in pictures | Art and design | The Guardian
これはエイチ・エム・エス・アルカンターラに乗った船員が西アフリカの国シエラレオネに向けた航海中に携帯用の手廻式ミシンを使って信号旗(シグナル・フラッグ)を修理している場面です。
船員の左頭部コメカミ辺りに巨大なネジが突き刺さったように写されていて、私はフランケンシュタインかと思ってしまいました…。
Le Blitz. Londres, 1941 & Apres un raid de bombardiers, Londres, 1941
これら2点はピエール・カルダンの文化スペース「エスパス・ピエール・カルダン」で行なわれた展覧会カタログに収められた作品。
向かって左の作品は「Le Blitz. Londres, 1941」と題されています。人体の首から下を切り落としたようにマネキン風な作品。逆にマネキンの肢体をバラバラにした作品が右の「Apres un raid de bombardiers, Londres, 1941」です。
ちなみに、このカタログは待望していました。2017年春からAmazonに古書の存在確認を予約し、2019年3月31日に古書の存在が確認された連絡を受け、すぐに注文。パリの書店「テトラ・フォリオ」(Tetra Folio)から本日到着しました(2019年4月20日)。
Cecil Beaton, Catalogue Exposition Espace Cardin, Paris, 1984
第2次世界大戦中
第2次世界大戦中、セシル・ビートンはイギリス・アフリカ・中東で英国情報省のために戦闘を記録しました。彼の有名な写真、3歳の空襲犠牲者アイリーン・ダン(Eileen Dunne)を捉えた写真は 「ライフ」誌のカバーを飾りました。
演劇衣装のデザイナーとして
30歳の時にセシル・ビートンはプロの演劇衣装デザイナーとしてデビューしました。劇場プロデューサーのチャールズ・B・コックランは1934年のレヴュー「ストリームライン」に彼を雇いました。
ビートンは他にもコクラン出演のレヴューや、オスバート・シットウェル、ウィリアム・ウォルトン、フレデリック・アシュトンらのバレエに衣装をデザインしました。ウェスト・エンド・シアトル・プロダクションズのためにも衣装デザインを担当しました。
映画衣装のデザイナーとして
1941年からビートンは英国映画界で衣装デザイナーとしても働きました。
終戦後、彼は富裕な有名人の撮影を再開しましたが、映画界で衣装とデザインのための情熱を育むために多くの時間を費やしました。
映画衣装のデザイナーとしてブレイクしたのは、ポーレット・ゴダード主演の映画「理想の夫」(1947年)で映画監督アレクサンダー・コルダが雇ってからでした。その後、ヴィヴィアン・リーの「アンナ・カレニナ」(1948年)が続きました。
ビートンが衣装デザインを担当した目立った映画には他にレスリー・キャロン主演の「恋の手ほどき」(1958年)があります。
恋の手ほどき : Gigi
この映画のためにビートンは故郷の屋敷レディッシュ・ハウスで2ヶ月間にわたりデザインをスケッチしました。
彼は初期のファッション雑誌「ル・モード」「フェミナ 」「ル・テアトル」「カイエ・ダール」などからインスピレーションを得てデザインしました。主な衣装はパリの裁縫店マダム・カリンズカ(Madame Karinska)に作ってもらい、残りの衣装はビートンがMGM社で製作監督しました。
この時、女優ハーミオーネ・ジンゴールド(Hermione Gingold)は黒色ウール地のドレスを嫌いました。このドレスはビートンが彼女のためにMGM社の衣装ストックから持って来たものでした。このドレスは結構傷んでいたので、ジンゴールドは愛人の制服みたいだと言いました。
他方でビートンはこのドレスがジンゴールドの特徴に完全に合っていると信じていました。彼女の役柄が倹約的でコンサバティブな女性だったからです。
ヴィンセント・ミネリ監督は彼の決断を支持しました。主演のレスリー・キャロンは敏感な女の子の一例で、「ダンサーとして衣服にあまり注意を払わなかった」とビートンは回顧しています。
ビートンは1956年にブロードウェイ、1958年にアラン・ジェイ・ラーナー原作のロンドンの舞台、そして、フレデリック・ローウェー原作の「マイ・フェア・レディ」の衣装をデザインしました。演劇の「マイ・フェアレディ」でも衣装を担当しました。
マイ・フェア・レディ : My Fair Lady
この映画でビートンは、映画衣装の分野で非常に熟達していることを証明しました。エレナー・アビー が衣装デザインの助手を勤めました。セシル・ビートンは映画「マイ・フェアレディ」のために1,816点もの衣装をデザインしました。
1962年にジャック・ワーナーと契約し、彼の製作映画で衣装をデザインするようになります。そして様々なデザインが再評価されていきました。映画「マイ・フェア・レディ」では衣装デザインと美術指導の2部門でアカデミー賞を受賞しました。
その後にビートンはハリウッドから一旦離れましたが、ヴィンセント・ミネリ監督が戻しました。アラン・ジェイ・ラーナー原作のブロードウェイ・ミュージカルの映画版「晴れた日に永遠が見える」でバーブラ・ストライサンドの衣装をアーノルド・スカアシ(Arnold Scaasi)と一緒にデザインしました。
グレタ・ガルボとの交流
これまで述べたように、セシル・ビートンは写真家として、映画衣装デザイナーとして、ハリウッドを拠点に大活躍しました。
アートとともに歩んできた人生のなかでたった一つ後悔したことがあると言います。
その後悔とは、グレタ・ガルボの写真は写したものの、映画衣装をデザインしたことが無いということでした。
ビートンはギルバート・エイドリアンとともに数少ないガルボの友人でありながら、彼女向けの衣装デザインは実現しませんでした。「桜の園」などでガルボの復活が囁かれビートンが衣装デザインを担当するかと思われましたが、それらの映画は実現しませんでした。
関連リンク
- Lucile dress : ルーシー・ダフ=ゴードン Lucy, Lady Duff Gordon の裁縫店 Maison Lucile Ltd 製のイヴニング・ドレスの詳細な写真と作品解説。National Museums Scotland のサイト内ページ。
- The Lucile Story – : Maison Lucile Ltd の後継となる Luxury Lingerie – Hand Made Designer Lingerie in London, UK のサイト内ページ。他に「Company History –」もあります。
- Home – National Portrait Gallery : 1856年に設立されたナショナル・ポートレート・ギャラリーの公式サイト。各著名人の肖像画・肖像写真をデータベース化しています。目的は「イギリスの歴史と文化を作ってきた男性と女性を肖像画を通して理解を促進させる」。
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