ジャンヌ・ランバン(Jeanne Lanvin)は、1867年にフランスのブルターニュに生まれたファッション・デザイナーです。
パリのランバン店の創立者で、19世紀末のパリ・モードをリードしたといわれます。
20世紀前半のフランスの有名デザイナーたちの何人かがランバンでの就職経験を持っています。昨今のデザイナーと異なり、裁縫の出来るデザイナーとして高く評価されてきました。
創業
1880年頃、13歳の時にパリの帽子屋に就職。結婚後の1888年にフォーブル・サントノーレで帽子店を開業。
1890年、娘マリー・プランシュに着せていたドレスが評判になって客が付き、パリのサントノレ通りにキッズとママ用の服を作る店舗(母子モードの専門店)を持ちました。この創立のいきさつを記念して、母子像が店の商標になっています。
浮沈の激しいパリ・ファッション界にあって、19世紀に創設されて今も健在という店はランバン以外には無さそうです。
1920年代にギャルソンヌ・ルックが流行した時にはチューブ・ドレスが注目されました。1930年代にはイヴニング・ガウン、ケープ・ドレス、ズワーブ風プルーマー・スカートなどを制作しています。また、ランバンは演劇が好きだったので、ヨーロッパの俳優たちにワードローブやステージ・コスチュームをデザインしました。
展開
多角化
創業後に店舗展開を着実に行い、隣接する2つの建造物を買収し、1925年には香水部門、1926年、甥モーリス・ランバン(Maurice Lanvin)を社長に通りの向かいにメンズ・ウェア部門を開店しました。
店舗はドーヴィル、ル・トゥーチ、カンヌ、ビアリックなどフランス各地に広がりました。
「マイ・シン」、「アルぺージュ」、「プレテクスト」などの著名な香水部門を持つランバンは、オート・クチュールで初めて香水を売出した店でした。
死後
1946年、ジャンヌ・ランバンの死去後、娘のポリニャック伯爵夫人や事業責任者のゴーモン・ランバンらに受け継がれ総合ブランド色を強めます。
オーナーはベルナール・ランバン、主任デザイナーにはアントニオ・カスティーヨ(店名はランバン・カスティヨ)が就任し、彼の独立後はジュール・フランソワ・クラエが担当しました。1965年からジャンヌ・ランバン店に名称が戻りました。
クラエの後はメリル・ランバン、クロード・モンタナらがデザインを手がけてきました。プレタ・ポルテ部門では1992年からドミニク・モルロッティがデザイナーに就いています。
1937年にパリ・オートクチュール組合の会長を務めました。フォーブル・サントノーレをエレガントな街にしたとしてフランス政府からレジョン・ドヌール勲章を受勲しました。
作風
裁縫技術は帽子屋の経験を反映して、生地の折りたたみや展開に長けていました。昨今のデザイナーと異なり、裁縫の出来るデザイナーとして高く評価されてきました。ランバンの評価は、まずこの点を強調しておきたいです。
絵画を題材にした刺繍入りピクチャー・ドレスやローブ・ド・スタイル、刺し子の生地(キルティッド・クロース)を使った広いドレープ入りの筒型袖ドレス、中世キリスト教会のステンド・グラスをヒントにした「ランバン・ブルー」などが有名です。
彼女のデザインには東洋風や故郷の民俗服・民族服、趣味として蒐集した銀板写真やファッション・プレートからの影響が色濃く出ています。刺繍や独特の青色が特徴で、エレガントでロマンティックな作風です。
ローブ・ド・スタイル:1922年
ランバンは、20世紀初頭のデザインで最も文化的な想像力を持っていました。
彼女は極東と中東のドレスや織物を勉強しました。前衛的な円筒形のデザインの探求を理解していきました。
他方で、ローブ・ド・スタイルになった18世紀のパニエのシルエットを決して忘れませんでした。
歴史的には、彼女の作品は側面の拡張を押さえ、前後を平らに広げた状態を維持しました。ランバンにとって新旧のシルエットは、もう一つの平面と映りました。
二次元の平面は、別のランバンの特技すなわち刺繍には魅力的だったのです。
イヴニング・ドレス「サイクロン」1939年
上の作品は娘が着ていたもので、ランバンが1939年に制作したシルク地イヴニング・ドレス「サイクロン」(スパングル付)です。
第2次世界大戦期のフランス慈善団体アメリカ支部が発起人となってニューヨークのジョン・ワナメイカー・ホールで1940年に開催した展覧会で展示されました。それ以後、長らく展示されてきませんでしたが、2002年~2003年の展覧会「Blithe Spirit:The Windsor Set」に登場しました。詳細はこちら(外部リンク)をご覧ください。
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