1928年1月23日にフランスのパリに生まれた女優です。父親はレストランの経営者、母親はイギリス人でダンサーをしていました。厳格な家庭でしたので、18歳の時に親に黙ってコメディ・フランセーズの「アンチゴーヌ」を見て、それから芝居に魅了され、女優になる決心をしました。
両親はジャンヌを早く結婚させようとして、南仏アヴィニョンの金持ちの商人と婚約させられます。彼女は色々悩んだ末、結婚式の前夜になって婚約指輪をローヌ川に投げ捨て、夜行列車でアヴィニョンからパリに戻りました。
バカロレアからコンセルヴァトワールへ
やがて、フランス教育省の発行する中等教育レベル認証の国家資格バカロレアに合格。しかし、彼女の望みは相変わらず女優になることでした。
その熱意に両親も折れて、音楽・舞踊・演劇を学ぶことできる公立学校コンセルヴァトワールに入学。ドニ・ディネスのもとで2年間を演技の勉強をしてモリエール劇団(コメディ・フランセーズまたはリシュリュー劇場)に入りました。
演劇デビュー
1948年1月に国立劇場コメディ・フランセーズの最年少女優としてツルゲーネフの「田舎の一日」で舞台デビュー。次第にパリ劇壇のスターに伸し上がっていきました。
映画デビュー
1952年からは国立民衆劇場に所属し、1948年に「Dernier Amour」で映画デビュー。「現金に手を出すな」(1953)あたりから売り出していきます。初めは情婦役などお色気専門の女優でした。
やがてヌーヴェル・ヴァーグの時代が到来、20代の青年監督ルイ・マルに出会ったことが、ジャンヌのスターへの道を決定的にします。ルイ・マルの第一作「死刑台のエレベーター」や「恋人たち」に出演し、続いてフランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」にも主演。
これらの作品で彼女は倦怠感を漂わせながら、激しい愛に身を灼くヒロイン像を表現。当時の若い世代の憧れの的になりました。同時に、それは彼女の実生活の反映でもありました。
監督業へ
1960年に「雨のしのび逢い」でカンヌ映画祭主演女優賞を獲得し、1970年代後半からは監督業にも進出します。監督作品では1976年公開「LUMIERE」、1979年公開「思春期」などが好評でした。
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俳優ジャンルイ・リシャールと1948年に結婚し、一男をもうけて1965年に離婚。1977年にはアメリカのウィリアム・フリードキン監督と再婚したが、のちに離婚しました。ほかにもピエール・カルダンやトニー・リチャードスンら多くの男性と恋の炎を燃やした。
1985年6月に開かれた第1回東京国際映画祭に来日しました。
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