18世紀から19世紀にかけてのイギリス産業革命の影響によって、イギリスの各都市部における産業構造は変化しました。主産業は繊維産業と衣服産業でしたが、これが地域間競争に入り変化したわけです。
産業構造の変化によって生き延びた都市も多く、著者のジョイス・M. エリスは、『 長い18世紀のイギリス都市 』で、いくつかの都市が生き延びたことを柔軟性という言葉で分かりやすく要約しています。私の著書『ミシンと衣服の経済史―地球規模経済と家内生産―』で第3章の「生計を立てる」を参照しました。
都市の柔軟性
以下に地域産業の構造変化で生じた課題を列記します。衰退も成長もあります。
- 1790年代にシュルーズベリー(Shrewsbury)に建設された紡績工場は後背地の経済に十分な足場を確保できなかったため、1830年まで生き残ることができなかった。
- ニューカッスル(Newcastle)の石炭業がつまずけば、労働者に靴を供給する靴屋が痛手を被るという危機があった。
- 港湾都市のチェスターと製造業都市のコルチェスター(Colchester)は、いずれも落ち着いた雰囲気を魅力とした町を、裕福な住民や旅行者へ新しく売り込むことに成功した。
- プレストン(Preston)は18世紀後半に逆の雰囲気、活力に満ちた勤勉な繊維産業都市として成長した。
(同書、78頁)
職業の融通性
著者は、都市の柔軟性に次いで、職業の融通性に注目します。これは近代女性の職業の専門性を強調した論点として重要です。
- 男女問わず、手工業ギルドと商人ギルドで徒弟を勤めた者はそのまま公式職業名で仕事を続けた。他方、ほとんどの都市民は自分の職業以外に第二の職業・副業をもっていた。
- とはいえ、職業上の男女差はおおむね男性優位に働いていた。それは給料の違いに明瞭であった。
- この給料の違いに、多くの歴史研究者、衣服史研究者、女性史研究者が陥る先入観は、男性の仕立業者は専門的技能に優れ(熟練労働)、女性の婦人服仕立業者や婦人帽製造業者は技能が低い(非熟練労働)というものであった。 →実際は、料理、裁縫、糸紡ぎ、店舗販売などの技術によって、ジョージ王朝期の都市部の大多数の女性が自活をし、家族のいる者は子供や時には夫を支えたこともあった。
もっとも、仕立業者のすべてが必ずしも豊かだったわけではありません。彼ら・彼女らの厳しい賃金状況は90頁あたりに紹介されています。
産業構造と職業の融通性がひとたび落ち着き始めたジョージ王朝期に、社会的な序列化が再編成され始めました。
衣服からみると次の通りです。古着市場と既製服産業(と市場)が拡大し、エリートに属さない下層民も身なりを整えやすくなりました。イギリスの特徴である紳士性は、ここで軽くなったと著者はみています。
ま、紳士性は取ってつけた伝統というのはイギリスの帝国史をみれば明らかですが。このような「均質化」というような現象によって、帽子による挨拶も軽減されていきました。
http://amzn.to/2oZvE1N
ジョイス・M. エリス『長い18世紀のイギリス都市―1680‐1840―』 松塚俊三・小西恵美・三時眞貴子訳、法政大学出版局、2008年
コメント