ニナ・リッチ(Nina Ricci)は1883年にイタリアのトリノで生まれたファッション・デザイナー。パリのオート・クチュール「ニナ・リッチ」の創業者。
幼時より服に興味を示し、人形の服作りに熱中。13歳の時、家族とともにパリに出て、お針子から身を起こした。18歳にアトリエのプルミエールを務めた後、宝石商ルイ・リッチと結婚。
渡仏以来30年以上にわたって縫製や裁断の技術を磨き修行を重ね、「ラファン」店と共同で米国のバイヤー向けに自作品の原型(プロトタイプ)を販売しました。
独立
これを機に1932年、自分のメゾン「ニナ・リッチ」を息子ロベール・リッチと一緒にパリのキャプシーヌ街でオープン。エレガントな女性のための、技巧をこらした優雅なドレスを次々に発表しました。
ニナ・リッチの服作りはデッサンを行なわずに服地を直接に顧客やマヌカンの身体の上にかけながら、ドレープを寄せカットを施す点が特徴。
「彫刻家」とよばれた優秀な技能によって作られた作品は、女性らしい丸みを帯びたライン、動きのあるデザインに加え、完璧な縫製と手頃な値段で、多くの上流婦人たちに支持をえました。
デザインに専念
1945年に経営をロベールに任せてから、ニナはデザインに専念します。ロベールの経営手腕や香水部門の成功などと相まって、「ニナ・リッチ」は世界的なグランド・メゾンに展開しました。1954年にジュール・フランソワ・クラエをチーフ・デザイナーに起用。
香水では、艶消しガラスの瓶に鳥をあしらった栓をした1948年の「レール・デュ・タン」(時代の空気)がよく知られ、晴れやかな中に清楚さを秘めた香りが幅広い層に受け入れられました。今でも世界中でロングヒットを続けています。
1959年に老齢のためニナ・リッチはデザインからも引退。店は息子のロベールに受け継がれました。
クラエがランバンに移ると、1964年にプレタ・ポルテ界で活躍していたジェラール・ピパールがチーフ・デザイナーに就任。以来、ピパールは「マドモアゼル・リッチ」のブランドでプレタ・ポルテの分野を開拓しました。
死後
1970年にニナ・リッチが死去した後もブランドの躍進は続き、1976年にジョルジュ・サンク通りにエレガントな巨大ブティックを開店。
次の作品は「マダム」1978年4月号に掲載されたシルクプリントのツーピースです。
1979年にモンテーニュ通りのディオール店の真向いに新しいビルティングを建ててクチュール部門を移転。ピパールは1987年にデ・ドール賞を受賞。香水部門でも「クール・ジョア」の発売以来、「レール・デュ・タン」など多くの人気商品を生みだし高い評価をえました。
日本では、「レール・デュ・タン」や「レ・ベルドゥ・リッチ」などの香水だけでなく、化粧品の人気も高いです。女性の素直なコケトリーを表現したデザイン・コンセプトが人気の理由。
21世紀のニナ・リッチ
1999~2000年秋冬シーズンから新しいチーフ・デザイナーにナタリー ジェルヴェ(Nathalie Gervais)が就任。
カナダ出身のナタリーはニューヨークのFIT、パリのエスモードを卒業後、1994年にトム・フォードの依頼でグッチに2年間携わってきました。また「ヴァレンティノ」のデフュージョン・ライン「デレクション」にも関わった経緯をもちます。新世紀に入った2001年春夏からはマッシモ・ジュサーニがチーフ・デザイナーに就任。
2015年秋冬にギョーム・アンリ(Guillaume Henry)が初めてコレクションを発表。ニナ・リッチ社に新たな女性像を示しました。洗練されたシルエットをより新鮮に仕上げ、ニナ・リッチ・スタイルに現実味を加えています。
ナチュラルなエレガントさと心地良さは、シンプルでありながら機能的なデザインにもとづいています。デイウェア、イヴニングウェアなどの垣根を越えて、タイムレスなワードローブを作り上げています。その上、ファブリックによる装飾を採用することで、より深みのある女性らしさを表現しています。
関連リンク
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