ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)は、スイスとの国境を接するフランスのジュラ県内アンシェイで1821年に生まれたファッション・デザイナー。ルイ・ヴィユトンとも。
20世紀を通じて鞄店を育てて巨大企業化した。1970年代にはパリジャンヌは持たず日本人だけが持っているとも、1990年代には小学生でも持っているとも称された。2010年頃からは金持ちのユニクロとも。
創業者の経歴
14歳のとき、ルイ・ヴィトンは粉屋を営む家庭での折り合いがうまくいかず家出し、徒歩でパリへ向かう。400キロにわたる徒歩の道中、様々な仕事をこなしながら、2年後の1837年パリへ到着し、荷造り用木箱製造兼荷造り職人の見習いになる。
旅行の歴史は、この伝説的なフランス人にいつもリンクされてきた。鞄デザインに関するルイヴィトンの独創的なアプローチは、同時代に敵なしといわれた。これは、19世紀半ばにヨーロッパの上流階級のなかで旅行(とくに大西洋横断)がブームになったという要因が大きい。
1854年、独立。パリのカプシーヌ通りで、旅行鞄では世界初のアトリエ「ルイ・ヴィトン」を設立した(この年、結婚もしている)。馬車の時代、木と鋲で作られた重々しいトランクが日常的だった当時にあって、蓋が平らになっており、馬車に積み上げることができるルイヴィトンの鞄は、人気を呼んだ。
また、大西洋横断という長期旅行などにも絶えうる旅行鞄が必要とされ、丈夫なポプラ材と防水性に優れたキャンバス地の使用なども人気の原因となった。グリ・トリアノン・キャンバスというヴィトンの素材は、防水加工の施された木綿製。この頃、ナポレオン皇妃が、旅行用ワードローブをオーダーし、そこから貴族たちの発注が拡大したことは、とくに有名。
1857年、ジョルジュ・ヴィトンが誕生。1860年、生産が追いつかず、パリ郊外のアニエール市に工場を拡大移転(ここは、今も工場所在地)。1867年には、パリ万国博覧会で銅メダルを受賞している。この頃、ルイヴィトンの模造品が数多く出回りはじめ、1872年、赤と茶褐色の複雑な縞模様生地に仕立てた「レイ・キャンバス」を発表(後、ベージュと茶の縞模様「レイエ・キャンバス」となる)。
1875年、パリのオート・クチュールの元祖であるファッション・デザイナー、シャルル・フレデリック・ウォルトが、業務上の重要な秘密をルイヴィトンに明かすという幸運が舞い込む。ロマン主義時代といわれた当時にあって最重要のファッション・アイテムだった、クリノリンとレッグ・オブ・マトン(ジゴ袖)が、より柔らかい材質に取って代わるという情報だった。ルイ・ヴィトンは、この情報にたいし、自分がデザインする鞄にショルダー部分と引き出し部分を加えることで対応。これが、有名なワード・ローブ、いってみれば旅行用家具となった。
店舗2代目以降
1880年、ジョルジュ・ヴィトンが2代目となる。1883年には、後に3代目となるガストン・ヴィトンが誕生。この時期になってもコピー製品の氾濫が止まらず、1888年、ジョルジュは「Louis Vuitton : marque deposee」(登録商標 : ルイ・ヴィトン)という文字を織り込んだ「ダミエ・キャンバス」という新しいキャンバスを発表。これは、世界初の登録商標で、表面にブランド名を表示した最初の商品でもあった。このダミエ・ラインは1996年に復活し、現在も販売されている。
1892年、創業者のルイ・ヴィトンが死去。
1894年、フランスの植民地だったベトナムでルイ・ヴィトンの製品が販売され、アジア進出を果たす。1896年、2代目のジョルジュ・ヴィトンが「モノグラム・キャンバス」を発表。これは、父ルイヴィトンのイニシャル「LV」のロゴ、花・星を組み合わせた模様で、ご承知の通り、現在最も人気を誇るモノグラム。このデザインは、当時流行していたジャポニズムの影響を受けているともいわれている。この時期のモノグラムLVは、上流階級=長期航海=旅行鞄=ルイヴィトン=モノグラムLVのイメージを確固たるものにした。
20世紀に入っても、ルイ・ヴィトンの躍進は続いた。1901年から、自動車用トランク、船旅用トランク、飛行機用トランクなど、続々と製品を展開。1924年には、現在の「スピーディ」、「ドーヴィル」などの原型となる「キーポル」を発表。この頃の個人顧客で有名なのはシャネルとリンドバーグ。まず、1925年に、ガブリエル・シャネルの依頼で「アルマ」を作製、1927年には太平洋横断を果たしたチャールズ・リンドバーグが帰路でスーツ・ケースを購入した。
1959年、ソフトキャンバスを発表。これは、現在のメイン素材となっており、木綿地に特殊なコーティングが施されたトワール。
コングロマリット化
1981年、ルイ・ヴィトン・ジャパン設立、1985年、エピラインの発表と、ルイヴィトンの躍進は続き、1987年、ルイ・ヴィトン社とモエ・ヘネシー社との合併が実現し、LVMH(ルイヴィトン・モエヘネシー)グループが誕生。その最高経営責任者には、ファッション界そのものの法王と呼ばれるベルナール・アルノーが就任した。
老舗としてのルイヴィトンは、1993年にタイガ・ライン(男性用)、オペラ・ラインを発表。オペラ・ラインは1998年に廃番にされたが、1998年にはヴェルニ・ライン、2001年にはグラフィティ・ラインが登場と、形や色の面で多様化してきている。2003年、ヴェルニ、モノグラム・サテン、メンズラインには「ヴォヤージュ・ミニライン」なども登場。
また、1997年にデザイナーにマーク・ジェイコブスを起用したことで(契約は2013年10月まで)、プレタポルテ進出も果たし、同時に靴製品の分野も展開。ルイヴィトンは、世界規模での店舗拡大だけでなく、製品分野の拡大も止まるところを知らない。
LVMH
以下、LVMHの展開を押さえてみよう。
まず、1987年、ルイ・ヴィトン社は、他の老舗ブランド3社、モエ・エ・シャンドン(1743年~)、ヘネシー(1765年~)、ゲラン(1828年~)とともに、ブランド複合体LVMHグループを構成。その後、株式持ち合いによってクリスチャン・ディオール(1946年~)を吸収。
LVMHグループは、19世紀以来フランスが得意としてきたエリート向けライフ・スタイル産業の主要分野を覆い、世界的に知られる多数のブランド企業を傘下に収めている。具体的にいうと、このグループには、ワイン&スピリッツ、ファッション&レザーグッズ、パフューム&コスメティックス、ウォッチ&ジュエリー、セレクティブ・リテーリングの5部門がある(各部門に列せられるブランドは、関連データとして下に掲載)。
とはいえ、オート・クチュールでは経営が成立しない20世紀に、既製品販売で大半を儲けた企業ばかりでエリート向けもへたくれも無い。
20世紀末、イタリア・ブランドの最大手であるグッチをめぐり、LVMHグループとピノー・プランタン・グループが熾烈な争いを交わした。2001年9月に和解が成立したが、これは、1987年に勃発したクリスチャン・ディオールとLVMHグループの闘争以来、当グループの名物となっている。
そもそもは、1984年に経営権を取得し、瀕死の状態にあったクリスチャン・ディオールのオートクチュール部門を再建の軌道に乗せたベルナール・アルノーが、当時、ディオールの香水部門「パルファン・クリスチャン・ディオール」を所有していたLVMHグループに対し、部門の買い戻しを要求。
しかし、LVMHグループは逆にクリスチャン・ディオール・クチュール本体を買収したいとの意向を示し、事態はM&Aの応酬となった。結局、アルノーの戦略によってディオール側がLVMHグループ全体の経営権の取得に成功し、世界最大のブランドグループとなった。
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