ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)は、1883年にフランスのオーベルニュ地方のソミュールに生まれたファッション・デザイナーです。
「ココ・シャネル」、「グランド・マドモアゼル」と愛称された20世紀最大級のデザイナーで、今でも女性の生き方に大きな影響を与えています。
シャネルは唯一のスタイルしかもたなかったといわれることが多く、シャネルの作風は近代生活に適した実用性と機能性、そして遊び感覚に尽きます。ただ、デザインよりもむしろ彼女の生き方に共感する女性がとても多いです。
シャネルの伝記
シャネルの人生は独特で、多くの人がインタビューをしては伝記を書いてきました。
その中でもポール・モランの書いたシャネルの伝記はかなり詳しく語録も多いので最初の1冊はこれをお勧めします。これは「獅子座の女シャネル」(秦早穂子訳)として長く親しまれてきましたが、2007年にフランス文学専門の山田登世子の訳した新訳が出ました(amazonでみる)。
経歴
シャネルは1883年にフランスのオーベルニュ地方のソミュールに生まれました。
12歳の時に母を亡くし、少女時代から姉妹とともにオバジーヌにあるカソリック神言修道院の孤児院で育ち裁縫を覚えました。後にパリ南方のムーランにある修道院で20歳頃まで過ごしました。
1901年に仕立屋、1903年に下着屋で働き始めます。ムーランの街にやってくる軍人たちと踊りに行くことが多く、陸軍士官のエティエンヌ・バルサンの愛人になりました。
この頃、歌手に憧れミュージック・ホールの歌手をします。愛称「ココ」は彼女のレパートリー「キ・カ・ヴィ・ココ(Qui qu’a vu Coco)」に由来しています。
帽子店の開業
1909年、当時被っていた自作の帽子が評判となり、バルサンの援助のもとマルゼルブ大通り160番地に帽子のアトリエをオープン。
ここは、裕福な人の住む独身男性用アパートで、バルサンが自分の借りていた部屋を、彼女を援助するために提供したものでした。
顧客が増えてきたため、翌1910年末に店をカンボン通り21番地に移転。
ここで婦人帽子店「シャネル・モード」として正式に認可を受けました。後にこの帽子店は、当時の愛人兼パトロンのアーサー・カペル(イギリス)の出資で買い取ることとなり、その時点から13年間で返済シャネルはを終えました。
帽子店から裁縫店へ
帽子店では婦人服のデザインも始め、帽子用の素材だったジャージーでドレスを作ったのがきっかけで、1914年(前年説あり)に帽子店を「シャネル」としてリニューアル・オープン。
この年、高級リゾート地であるドーヴィルのゴントー・ビロン通りにも店舗を開きました。ドーヴィルの店はカペルの勧めがあったといわれます。
1916年(前年説あり)にはスペイン国境付近のリゾート地ビアリッツに仕立店をオープン。また、パリのカンボン通りの店を仕立店に転換しました。ベンチャー企業として数百人の従業員を抱えるに至っていましたが、それまでの銀行融資をこの年に全て返済している点は驚愕に値します。
この時期のシャネルの試みでは、それまで労働着・下着だったセーターを日常着として取り入れたり、下着用素材のジャージーや男子服のラフさに着目したりしました。
胴の長く、スカートの短かい男っぽい服(ギャルソンヌ・ルック)も有名。
1916年にはジャージーのシュミーズ・ドレスが『ハーパース・バザー』誌に取り上げられました。1920年にカンボン通り31番地へ店舗を拡張。
香水部門へ進出
1920年に南フランスのグラスで調香師エルネスト・ボーと出会います。
翌1921年に有名な香水「シャネル No.5」と「シャネル No.22」の販売して成功。この香水は80種類もの成分を優秀な科学者が混合した、全く新しい人工の香りとして人気を博しました。
1924年にピエール・ヴェルタイマーの提言を受けて「シャネル香水会社」を設立。以後、毎年香水の新ブランドを続々と発表。1950年のマリリン・モンローの発言「寝る時に身体につけるのはシャネルの5番を5滴だけ」はとても有名です。
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アクセサリー部門、生地生産、映画・舞台衣装へ進出
1934年にシャネルはアクセサリー部門の工場、翌1935年にはパリの北方ピカルディー地方に自社製品用の服地工場を建設しました。当時シャネルのメゾンは従業員4,000人を抱えたといわれます。
この頃、ロシア・バレエのアヴァンギャルドな舞台衣装やハリウッド映画の衣装なども手がけました。といっても働く女性(OL)に映えるシャネルのデザインはハリウッドの主役女性のように単独衣装で目立たせるという立場とは違うので、シャネルのデザインは不評を買いました。
引退から復帰へ
このように、シャネルの躍進は留まるところを知りませんでした。
しかし、第2次世界大戦中の1939年に香水とアクセサリー部門を除き、シャネルは店舗を閉鎖し、コモ湖畔で引退生活を送ります。理由の一つに対戦相手のドイツ人との恋があったと言われますが真相はいかに…。
その後、1954年2月にガブリエル・シャネルは70歳で復帰。当時、世界でもっとも著名だったクリスチャン・ディオールの復古的で着せ替え人形的な「ニュールック」という何も新しくないルックに対し、1955年にシャネルは機能的なツイード・スーツをぶつけました。
ツイード地のシャネル・スーツ
このスーツは、上着とスカートのツーピース。有名な金色のボタンと、羊毛ツイードから青色・灰色・黒色のストレート・スカートを備えたボックス・ジャケットを特徴とします。
スカートは膝丈で、デスクワークのどんな立ち居振る舞いにも適しました。ジャージー・ブラウスが首回りとウェストにタブを重ねたディテールとなっていて完成度を高めています。
このスーツは当初フランスでは不評でしたが、女性のエグゼクティブの台頭がめざましかったアメリカで人気が爆発しました。
アメリカに遅れること10年、女性の高学歴化が1960年代に進んだフランスでは1970年代に入ってようやくシャネル・スーツが有名になっていきます。
以後、シャネル・スーツはディオールのニュールックよりも遥かに世界的な大流行となりました。
この頃のシャネル・スーツは1920年代のシャネルが編み出した基本的なラインを維持しながら、服地はジャージーにとツイードに代わり、色調が明るくさらに若々しいルックになりました。
シャネルのツイード・スーツの原型は1928年。
ツイード自体は元ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、1931年から1934年にかけてシャネル工場の技術部長を務めている間に開発したものです。
死後
1971年1月、コレクションの準備期間中にホテル・リッツの一室で急死。
没後も会社は継続し、1974年、アトリエのチーフだったジャン・キャゾボンとイヴォンヌ・デュデルが制作を引き継ぎました。
シャネルはマダム・グレと同様、生涯プレタ・ポルテ部門をもちませんでしたが、1977年にシャネル香水会社がスティリストのフィリップ・ギブルジェを招いてプレタ・ポルテ部門と専用ブティックをオープンしました。
1983年にドイツ人デザイナーのカール・ラガーフェルドが芸術顧問とオート・クチュール・コレクション責任者として赴任。
ラガーフェルドの着任とともにシャネル・ブームが世界的に再燃しました。1989年春夏のコレクションでは、ピアリッツのココ・シャネルを思わせるような、若々しい避暑地のファッションを発表しています。
また、同1983年にはモンテーニュ大通りにブティックを開店しました。同店ではパッケージや時計のデザインをジャック・エリュー、調香をジャック・ポルジュ、美容部門をドミニク・モンクルトワと、エディ・モラヴェワが担当しました。
1980年代にアクセサリー部門はフランス屈指の加工技術とセンスを誇るといわれるゴンチエ・フレール社など周辺企業との連携を強め、原色のシャネル・バッグや化粧品プレシジョンの投入。またジーンズを販売するなど総合企業体としてのラインナップを充実させました。
シャネルの作風
1920年代前後のシャネルは私生活や恋愛で多彩を極めました。
イゴール・ストラヴィンスキー、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、セルゲイ・ディアギレフ、ピエール・ルヴェルディなどの芸術家たちと親しい関係を結び、とかく伝説的な話題が多いです。
第1次世界大戦期に真っ先にミリタリー・ルックを取り入れたのはシャネルです。
これらの作品を通じてシャネルは戦後の新しい女性像を明確にとらえ、シンプルで機能的なスタイルをアピールしました。それまで単に飾りに過ぎなかったボタンやポケットに現実的な役割を与えました。またマスキュリン感覚をもって1920年代のモード界をリードしました。
この頃、黒とベージュを基調にして、シックで実用性と機能性を備えたシンプルなチューブ・ラインのドレスを次々と発表。例えばジャージーのテーラード・スーツ、カーディガン・スーツ、シュミーズ・ドレスなど。
他にも、
- シンプルで短いチューブ・ドレスの飾りとして作られた模造宝石の装身具「ビジュ・ファンテジ」
- ふくらはぎ丈のパンタロン
- 「シャネル・ルック」とよはれるカーディガン・スーツ
- ベルベットのジャケット
- くるぶし丈のイブニング・ドレス
- 金属ボタンや大型フレームのサングラス
- つま先で切り替えたベージュ×黒の底寸パンプス(シャネル・パンプス)
- 鎖と革のストラップで知られるキルティング・バッグ(シャネル・バッグ)
など。
100種類を超えるシャネル・スタイルは、多くが今でも受け継がれていると言われます。
今日、シャネルの典型とされるスタイルの原型は1920年代頃に形成されていたわけです。
一目惚れ
立領、パイピング、コントラストの聞いた単純2色のこのスーツがおしゃれです。
中のカーディガンが無ければもっとシンプルで格好良いんですが、1920年頃の作品なので少しくどいのは仕方ありません。
ジャケットに肩パットなし、ポケット4か所、金色ボタン5つ。中のカーディガンにも同じボタンが1つ見えます。
最後に
コルセットが女性服の基本とされてきたモード界において、20世紀初頭にポール・ポワレが女性の束縛を崩す試みを行ないました。コルセットの追放といいます。
ファッション史におけるシャネルの功績はコルセットの追放を世界中の女性に向けた点にあります。
ポワレは宮廷の貴婦人の遊びの一環としてコルセットを解放したにすぎず、シャネルは宮廷の女性からではなく、もっと多くの女性からコルセットを追放して働く女性へと変えたのです。
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