このページでは、林邦雄の記した「ファッション・デザイナーの系譜と活動」をまとめています。
通説のファッション史は、林にかぎらず間違いだらけなので、批判したり無視したりしています。今でも使える情報を抽出して要約します。
出典はこちら。
- 林にとっての事実と私にとってのエッセイ批評を混ぜているので、少し読みにくいかもしれません。
- 林にとっての事実の所は私が現在形で書いた所が多いです。おおむね刊行時(1975年)の文脈で読んでください。
悪しからず。
エッセイについて
すでに林のこの記事は「マダム・マサコの位置づけ 「婦人画報創刊70周年記念 ファッションと風俗の70年」より – マダム・マサコがいた時代」に少し紹介されています。
タイトルどおり、マダム・マサコを取りあげ、ファッションデザイナーとしてどうだったのかを中心にまとめています。
林邦雄「ファッション・デザイナーの系譜と活動」は「婦人画報」創刊70周年を記念した寄稿です。意図は、日本のファッション70年間を担ったファッション・デザイナーの道程と活動の模様を描くことです。
国際的な広がりを見せてきた日本のデザイナーの活動:1970年代
エッセイは「国際的な広がりを見せてきた日本のデザイナーの活動」からスタート。
国際的に活躍する人たち
1970年代ころに海外で活躍しているデザイナーをホットに取りあげています。
高田賢三がプレタポルテ1974年秋冬コレクションにカーキ色の作業着を「ファティーグ・ルック」として発表しました。エッセイは、そんな高田も戦争を知らないというトーンで、どこか責めている節があるよなないような…。
三宅一生は刺子や楊柳を現代ファッションに活かすと指摘。1975年9月にパリで1号店をオープンしました。
ベテランの森英恵は、ニューヨーク東79丁目にショールームとストアをオープンしています。
このように、日本のファッション・デザイナーは国際的な活躍をしています。
国内で後進を育てる人たち
他方で林は、国内の指導者たちにも目を向けます。
挙げたデザイナーは、杉野芳子、田中千代、野口益栄、原のぶ子。彼女たちは若手デザイナーの育成に当たっていました。
- 杉野芳子はドレスメーカー女学院の創立者です。同学院の現在は杉野服飾大学、杉野服飾大学短期大学部、ドレスメーカー学院などに分かれています。「杉野芳子ものがたり」や「杉野芳子とドレメ」に略歴が載っています。
- 田中千代は田中千代学園の創立者です。世界各地の民族衣装に造詣の深い点がデザイナーたちのなかで突出しています。
- 野口益栄は雑誌「装苑」や文化式の図書を書いているので、文化服装学院系列の教師をしていたと思われます。
- 原のぶ子は原のぶ子アカデミー洋裁の創立者で、このアカデミーは後に青山ファッションカレッジになりました。現在のクリエイティブディレクターは菊池武夫。アカデミーの卒業生です。
無名のデザイナーたち
このエッセイの著者は有名デザイナーだけでなく、当時1000社ほどあったという婦人子供服メーカーのうち、鈴屋や樫山を挙げます。鈴屋には無名のデザイナーが約100人いるという指摘も。
無名にも目を向けるという点は感心しましたが、既製服が溢れているから製品間の差別化が必要だという指摘があり来たり過ぎて何の説得力もありません。
1社に100人もデザイナーがいて、社内だけでもどうやって差別化するのでしょう…。ましてや世界市場で…。その辺の疑念を払拭してくれる内容がありません。
日本の洋裁教育の黎明期 洋裁家の出発点:1900年代~1920年代
日本のデザイナーがデザイナーとして確固たる地位をもったのは戦後すぐくらいでした。
「婦人画報」が創刊した1905年ころにデザイナーという言葉はなく、裁縫師か仕立屋という言葉があっただけです。
その頃、洋服屋は唐物屋(とうぶつや)、婦人服は女唐物(めとうもの)とよばれたそうです。「外国=唐」という図式にかなり唖然。「洋」(西洋)はまだ根づいていなかったのでしょうか。
1923年に関東大震災がおこって洋装化が進んだと述べています。
震災以前に女学生たちは袴と靴だったから洋装は進んでいなかったという風にエッセイの著者は書いていますが、看護師(当時は看護婦)たちの衣装はもっと早くから洋服だったような…。ちょっと先入観にとらわれ過ぎた文章で唖然。
といっても、和洋が混ざっていたというのが実情で、すべて和服だった訳でもなく、すべて洋服だった訳でもありません。
1920年代半ばになると、洋裁塾や洋裁学校が開かれていきました。その発端はアメリカのシンガーミシンだったという指摘が面白いです。もう少したどってみましょう。
シンガー社のミシン販売員だった遠藤政治郎は、ミシン販売のために洋裁を教えるという経営を思い立ちます。教師に並木伊三郎を招いて、1920年に洋裁学校を開校。開校時は戸板女学校の炭小屋を教室に借りたとのこと。
これがなんと後の文化服装学院となるわけです。文化系のルーツがシンガー社という、ミシン研究をしている立場からすると面白い事例です。
杉野芳子は、後にアンチ文化系として君臨するドレメ系の創始者です。1926年に虎ノ門のビルの一室を借りて、ドレスメーカー・スクールを開校。1期生は3人…。
洋裁教育の黎明期は、文化系もドレメ系もなかなかワイルドでタフです。
婦人標準服をめぐる攻防:戦時期(杉野芳子・伊東茂平)
戦時下の1942年に厚生省は外国衣服を排除するために婦人標準服を制定しました。
といっても19世紀までのルーズな和服に戻れるわけがなく、和洋折衷が実情。
婦人標準服の制定に多くの日本人洋裁家がしたがいましたが、杉野芳子と伊東茂平の二人だけは抵抗したといいます。戦時期の「婦人画報」誌には伊東茂平のデザインと国方澄子のイラストのコンビがよくみられました。
デザイナーの誕生:1940年代後半
1949年にデザイナーという言葉が初出したそうです。
日本デザイナークラブ(NDC)の発足です。このクラブの発足でデザイン部門だけを専業にする仕事ができたわけです。つまりファッション・デザイナー。
日本デザイナークラブ(NDC)
日本デザイナークラブは洋裁ブームとアマチュアデザイナーへの対抗から出てきた団体で、プロデザイナーの集まりをめざしました。
1948年3月1日、発起人会が銀座7丁目のモナミで開かれました。
集まったのは、
- 木村四郎
- 塩沢沙河
- 牛山源一郎
- 田辺静江
- 樋口しげ子
- ジョージ岡
- 青木清子
- 小堀ふみ子
- 谷長二
- 渡辺良子
- 松井直樹
- 田辺信次
- 鈴木宏子
以上です。
銀座の洋装店を中心にしたメンバーでした。
当初は、会費は持ちよりで、組織的な形態も整っていませんでした。
NDCの構想は、雑誌「スタイル」の表紙を描いていた松井直樹が、木村四郎や青木清子にアイディアの実現を呼びかけました。これがNDCのはじまり。
発足後もしばらくのんびりと、デザイナー同士が横のつながりをよくしていこうという親睦会のようなものだったそうです。
戦後経済統制が続いていて、発足頃にようやく繊維統制も綿とスフを除いて解除されたとか…。
NDCが組織的な形態を整えたのは1950年。
3月に日劇で「ショーとダンス音楽の夕」と題したアトラクションのショーを開催。デザイナーの名前と生地のスポンサーが、ショーの中に組み入れられるというタイアップがスタートしました。
ショーのモデルは日劇のダンシングチームらで、一部に谷さゆり(フランキー堺夫人)や荒井まき子(のち北原三枝)らも参加。
この時期はデザイナーという存在のPR期。この時期が、事実上の仕立屋とデザイナーの分離期になりました。林は「ブロとアマの境界線がひかれたのである」と言いますがそれは言い過ぎ。どちらもプロです。
とにかく、NDCの願問には、伊東茂平、田中千代、杉野芳子、野口益栄、山脇敏子が並んだとのことで、格として確立できたわけです。
洋裁学校の乱立
ファッション・デザイナーの卵を育てる洋裁学校は1950年頃に数千校あり、学生数も30万人を超えたとか…。
主な流派は文化系、ドレメ系、田中千代系、伊東茂平系、山脇その他、という具合だったそうです。
また雨後の筍のように増えたのは洋裁学校だけでなくファッション雑誌(女性雑誌)もでした。
日本でデザイナーが誕生した戦後に、デザイナーたちはどうやってデザインを勉強したのか。これについて興味深い話を林は書いています。
CIE図書館
東京日比谷の東宝宝塚劇場横にあったCIE図書館でデザイナーたちが外国ファッション雑誌にトレーシングペーパーをあててコピーしまくったというエピソード。
活気ある風景
「ハーパース・バザー」「アメリカン・ヴォーグ」「グラマー」「セブンティーン」「チャーム」「マドモアゼル」「オーダー・ブック」などが並んでいたそうです。洋裁学校の学生たちで溢れかえっていたそうで、活気ある風景を想像します。
今は中国にパクるなとほざいている日本人が外国文化をパクりまくっていた時代です。もちろん、パルることで成長した訳ですが。
複製アラモード
そんなこともあって、洋裁の消化技術も発揮する生活水準も極貧の日本で、闇雲に欧米ファッションを受け入れる素地ができてしまいました。
フランス・モードならぬフランス詣には、デザイナーだけでなく服飾研究者たちも汚染されました。詳しくはこちら。
ファッション・デザイナーの時期別羅列
前置きが長くなりました。
そろそろデザイナーたちの区分をまとめます。
戦後にファッション・デザイナーという職業が確立されたので、戦後のみ。
第1期デザイナー:日本に洋裁を紹介した人たち
- 杉野芳子
- 田中千代
- 伊東茂平
- 原田茂
- 野口益栄
- 原のぶ子
- 山脇敏子
第2期デザイナー:洋服を日本人にアレンジした人たち
- 桑沢洋子
- 国方澄子
- 中原淳一
- 藤川延子
- ジョージ岡
- 越水金治
- 金井茂平
第3期デザイナー:服飾ブームを盛り上げた人たち
多いです。もうちょっと選んでくれ…。
- マダム・マサコ
- 伊藤すま子
- 伊東達也
- 安東武男
- 原口理恵
- 島村フサノ
- 松田はる江
- 諸岡美津子
- 三富康恵
- 鴨居洋子
- 金子光子
- 河合玲
- 森英恵
- 細野久
- 中嶋弘子
- 中林洋子
- 鈴木宏子
- 牛山源一郎
- 久我アキラ
- 植田いつ子
- 芦田淳
- 水野正夫
- 水野和子
- 南玲子
- 近藤百合子
- 中村乃武夫
- ルリ・落合
- 西田武男
- メイ・S・青木
終ったと思ったら、次は関西って…。
- 国松恵美子
- 近藤年子
- 立亀長三
- 坂本章恵
- 段中美恵子
- 上田安子
- 三浦僖余子
次は名古屋。
- 小沢喜美子
- 加藤代志
少し遅れて登場とか言ってまだ続く…。
- 米山ヒデミ
- 仁田敬也
- 君島一郎
- 青田利子
- 岩崎百合子
- 志村雅久
- 小野村賢治
- 渡辺和美
- 河野幸恵
- 望月富士子
- 奉砂丘子
第4期デザイナー:フィーリング頼みの人たち(ブティック商法大流行)
- コシノ・ジュンコ
- コシノ・ヒロコ
- 鳥居ユキ
- 伊藤公
- 鈴木紀男
- 菊池武夫…ルリ落合の弟子。私の好きな映画監督ウォン・カーウァイとコラボCMしていて少し意識しています。
- 花井幸子
- 高田賢三
- やまもと寛斉
- 三宅一生
- 松田光弘
- 金子功
- 熊谷登喜夫
- 藤堂正男
- 池田貴雄
- 多田敦子
- 佐藤賢司
- 伊藤幸雄
- 佐藤昌彦
- 川上繁三郎
- 倉屋ゆうじ
- 長沢洋
- 長谷川志郎
- 松田数々六
- 後藤和雄
- 鹿間弘次
- 森陽子
- 吉田ヒロミ
- 山県清臣
- 藤堂紀代子
- 山路妙
- 板東京子
- 椎名アニカ
- 大野ノコ
デザイナーの種類
- 街の洋装店デザイナー…NDC、NDK、サロンデモード、日本洋装協会、全日本洋裁技能協会、ADA(前日本洋装店連盟)など。各組織には上に列挙したデザイナーたちが組織政治に埋没した肩書のラッシュ。ゲロ出る数なので省略。組織政治よりデザインしろよ…。
- 高級洋装店デザイナー…オートクチュールを掲げながら経営はプレタポルテに強依存。細野久、森英恵、鈴木宏子、鈴木紀男、松田はる江、ルリ・落合、越水金治、君島一郎、望月富士子。
- デパート・デザイナー…伊藤すま子(高島屋)、南玲子・能味桂子(東武)、金井美代子(東急)、相沢千栄子・二見綾子(三越)、人見睦子・高梨浜子(西武)、奥村千栄子(小田急)、成尾歌子(松坂屋)。
- 教師デザイナー・教壇デザイナー…杉野芳子、新井淑、北野己代子、近見弥生、水木陽子、野村寿栄子(ドレメ)。原田茂、野口益栄、小池千枝、笹原紀代、戸泉静子(文化)。
- ブティック・デザイナー…第4期デザイナーの多く。
- 既製服デザイナー…無名だがデザイナーズ・ブランドが出てきてもおかしくない。
紹介はこれでおしまい。
著者林邦雄のオチは日本人デザイナーに創造性は無いとのこと。
そんなこと言いだしたら何にでも当てはまります。
コメント