パリのお針子ジャニーヌの生活
このページでは、雑誌「ドレスメーキング」鎌倉書房、の「本誌のカメラ訪問」シリーズとして、通算56号(1955年11月号)47頁に掲載された記事「パリのお針子ジャニーヌの生活」を紹介しています。
クリスチャン・ディオールのアトリエで働くお針子ジャニーヌの生活を追っています。
当時のディオール店が繁盛していたことと、少しはミシンを使っていたことがよくわかります。ディオールのアトリエでミシンが使われていたことは、このページ最後の写真のキャプションをご覧ください。
リード文は次のとおりです。
いちいち表記しませんが、促音に改めたりローマ数字に変えたりした箇所があります。
パリのお嬢さんにとって高級衣裳店に動めることは、たいへんなあこがれの一つ。豪華な「水色の夜会服」を縫っていても帰る先は場末という映画の主題歌の例に洩れず、パリ生れのジャニーヌさんもディオールのアトリエに通い、タ方になればさっさと両親の待つている場末のアパート街へと帰って行きます。華やかな衣裳を縫っていても、泣きたいような厳格な修業時代が2年も続きます。ジャニーヌさんはまだ16才ですが、学校を出てすぐ大衣裳店の厳重な入社試験を突破した幸運児の一人。華やかなパリのお嬢さんと呼ばれても生活は想像以上に真撃でつつましやか。その実例をお針子ジャニーヌさんの家庭に捉えたいと、7月のある日、本誌はカメラマンと共にパリの場末、トービイ街のアバートを訪れました。
出典 「ドレスメーキング」鎌倉書房、通算56号、1955年11月号、47頁
パリの女性にとって、高級ブランドまたはオートクチュールとよばれるアトリエで働くことは憧れでした。でも、生活環境が良いという訳ではなさそうです。
リード文に対する感想ですが、「厳格な修業時代が2年」続くという点を詳しく書いてほしかったです。
2年間は試用期間だということでしょうか。高級ブランドだから2年くらい始業しても仕方がないというのはガラパ思考。ディオール店をはじめ有名アトリエの具体的な経営方法や雇用方法をもっと知りたいです。
なお、「厳重な入社試験を突破した」大衣裳店(大衣装店)はディオール店ではありません。後述するようにジャニーヌは取材時に同店で1年間働いていたことを述べています。転職したことになります。
ジャニーヌ自身のエッセイを見てみましょう。
ジャニーヌのエッセイ
ディオールのアトリエに勤めてもう1年になります。
今シーズンのコレクションの初日を2週間後に控えて、職場は戦場のように殺気立っています。毎日こまかい針仕事なので、みんな目を充血させて一生懸命。
前シーズンにうちの店ではAラインを発表してずいぶん騒がれましたが、今シーズンは何が発表きれるのか誰も知りません。ただ、昨年と違ってスカートが細目になってきていることだけは判ります。
6時の帰宅時間になってタイム・レコーダーを押した時はホッとします。明日は休みなので今晩同室のジルベールが遊びにくるというので急いで帰りました。
毎日フランクリン・ルーズベルトから地下鉄で帰りますが、この時間だけは坐れたためしがありません。母に買物に行ってもらって、台所で夕飯の支度を私がします。ジルベールのために御馳走を作ります。ジルベールとは一緒に入社試験を受けた仲なのでいつも誘ったり誘われたりしています。
食後はママもパバも一緒にトランプなどします。バパも明日は休みなので、今晩はとても寛いで一緒に遊んでくれました。
今晩は夜の外出を許してもらっているので母とジルベールの3人で近所の映画館に出かけたましたが、エロール・フリン主演のアメリカ映画だったので、やめて2丁ばかり先の広場にかかっているカーナバルの方へ行くことにしました。
1回100フランの電気自動車に二人で乗りました。とたんに若い男が私達の車にぶつかって来ました。あまり強い勢いだったので舌をかみそうになりましたよ。少し行くとこんどは真正面からぶつかってきます。くるりと向きをかえようとしたら私たちが隣の車にぶつけてしまいました。みんな大人ばかりが乗っているので面白かったです。
ジルベールが射的をやろうといいます。
経験はありませんが、すっかり愉快になっいたときなので、早速やりました。25フラン払うと5つの弾がきます。ジプシー人形を当てることにしました。台に乗り出すようにして狙っても、そう当たるものではありません。2人で成績を比べあって私が勝っていたので、母まで喜んでくれました。
感想
ディオールのアトリエ
ディオールのコレクション前の様子を書いた珍しいエッセイだと思います。ディオールは23室のアトリエを持っていたんですね。マンション(アパルトメント)の部屋を23個借りていたと私は理解しました。
同じパリのファッション・デザイナーでも、1960年代に独立創業したアンドレ・クレージュですと、パリ郊外に工場を構えてパリに販売店を出すという経営パターンになります。ディオールの経営は徐々に拡大したり多角化したりというツギハギ感が出ているように思いました。
子供の遊び方と文章
現代語訳していて思うのは、遊ぶ方法の少ない時代に特有の文章があるということでした。
遊ぶ方法は今より少なく戦前より多いので、戦前から想像すると輝いてみえ、今からみると、ちょっとあどけなさや可愛さを感じます。
丸写しの引用をせずに読みやすくしましたが、原文はもう少しマッタリしています。ただ、断定口調なので、電気自動車や射的の話あたりの原文はもったいないです。
分かりやすく書きなおしても、素朴な生活と純朴な人間関係が伝わってきます。仕事と遊びのメリハリがはっきりしていて、元気を感じました。
ただ、印象として全体的に暗さと寂しさは残ります。
1960年代になるとパリの都市問題は先鋭となり、ジャン・リュック・ゴダールが作った映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」という独特な退廃的マンション生活が待ち受けています。
1960年代パリのミシン工の女子
映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」
先に触れた映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」と結びつけて考えてみます。
これまで紹介してきたジャニーヌとは異なるとも同じともいえるミシン縫製工の女子がこの映画に出てきます。
この映画では、道路工事・自動車道路の場面がたびたび挿入され、立ち入り禁止と騒音の角度から、絶え間ない都市再開発が描かれます。
後にマリナ・ブラディと知り合いになる若い女性が《お決まりの話》として登場します。アパレル産業でミシン縫製工として働いてきた女性です。
このミシン工の青春と人生は次のとおりです。
ミシン工の試験に合格して工場に入る
男に騙され 子供が生まれ 捨てられる
1年後 別の男と 同じことをくり返す
(中略)やがてお人好しの男と結婚して
アパートに住むが 家賃は高い
3人目の子供で 万事休す
彼女に 売春させるのは 夫自身なのだ
出典 1967 – ARGOS FILMS – ANOUCHKA FILMS – LES FILMS DU CAROSEE – PARC FILM.
ここには工業化社会における工場労働の定着性が記されています。
必要な労働ですが従業者の人生も定着したルーチンワークのように映画で描かれています。
ジャニーヌとミシン工の女子
二人を直接に比較するのはやや乱暴です。
ジャニーヌの記事は1955年に公開され、ゴダールの映画は1967年に公開されました。10年以上の時差があります。
また、二人の職場は有名アトリエと無名アパレル工場ですから、同じ服づくりといっても雇い主からの待遇や、女子たちの経歴が違うかもしれません。
ただ、裏腹の関係にあったことは想像できます。
ジャニーヌが1960年代に結婚して、夫婦生活や家族生活を円満に進められていたなら、ゴダール映画の縫製工に子供を育てないでしょう。でも、育児中にトラブルがあり家庭環境を変えてしまったら、ミシン縫製工として転職や再就職した可能性があります。
生活環境と家庭環境は1960年代のパリで大きな問題となりました。
その頃、フランスの有名ブランドはオートクチュール部門だけでは経営破たんするのでプレタポルテ部門を設置したり、香水・化粧品部門など多角経営化しました。
この記事で紹介した内容のようなビッグイベントとヘビーワークがメリハリあるような時代は1950年代で終わっていたかもしれません。
このように二人を結びつけて考えると、どのようにして、ジャニーヌが1960年代のパリ問題を切りぬけたのか、知りたくなってきました。楽しく幸せな生活が続いていれば良いのですが…。
最後に
お針子とは縫うよりも刺す作業を重視した命名で、言い得て妙といったところです。
ただし、高級ブランドの衣装といってもミシンを使っている場合もある点はお忘れなく。
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