シャルル・フレデリック・ウォルトは、1826年にイギリスのリンカシャーのバーンに生まれた、フランス第2次帝政期(1852~70)の王室お抱えファッション・デザイナー(ドレス・メーカー)です。
「モードの王様」と呼ばれました。英語表記は「Charles Frederick Worth」。
経歴
シャルル・フレデリック・ウォルトは12歳の頃からロンドンの生地店で働き、1845年(20歳)に渡仏。リシュリュー通りの有名な衣料品雑貨店「ガシュラン」に就職しました。
ここで10数年働き、裁縫師(クチュリエ)としての第一歩を踏み出しました。
この間、自分が筆頭となり婦人服仕立部門を作り、生きたマネキン(人台、フランス語でマヌカン)に服を着せて顧客やバイヤーに披露し販売する方法を創案しました。モデルという職業の発端といわれます。
同店の販売員でウォルトのモデルにもなったマリ・ヴェルネと後に結婚しています。
作風
シャルル・フレデリック・ウォルトの作品は、刺繍トレースをふんだんに使った高級服が基本。
ジェット(黒玉)、コード刺繍、マクラメ、フリンジ等、やや重たげな世紀末の衣装を象徴したものが多いです。
彼は、エレガントで華麗なクリノリン・スタイルを広め、1866年にはプリンセス・カット(プリンセス・ライン)のドレスを発表。
ついで、下からペチコートをのぞかせるチュニック・モードを考案しました。
その後のバッスル・スタイルなども含め、まさに宮廷モードから現代モードへの転換期に活躍しました。
複製のドレスはイギリスやアメリカの既製服企業のバイヤーにも販売されました。また、そういう販売形態(ライセンス販売)を行なった最初の人でした。
独立
1858年、スウェーデン人投資家ボベルグの資金援助によって、シャルル・フレデリック・ウォルトはパリのリュ・ド・ラ・ペ通りに仕立店を開業。
布地の仕入れ、アトリエ、専属マネキン、年4回の創作衣装の発表会(ファッション・ショー)など、経営と創作を統合する一貫した運営法を形成しました。
これが今日のモード界の基礎となっており、シャルル・フレデリック・ウォルト がパリのオート・クチュールの祖といわれる所以です。
そのため、19世紀後半の比類のないファッション・リーダーの地位を得ました。
彼の店があったリュ・ド・ラ・ペ通りもまた、後にドゥーセやイシドール・パカンなどが出店し、パリ・モード界の心臓部となっていきます。
シャルル・フレデリック・ウォルトの店舗(メゾン)の衣装は法外な価格がしたそうです。
もっとも簡素な昼間のドレスでも1500フランを下らなかったそうですが、これは現在の日本円で約150万円の値段です。夜会用のドレスとなると、これの数倍はしたそうです。
また、当時のイギリスで「お金持ち」といわれた年収層は5000ポンド。
これを、ウォルトの顧客の年間支払額が400~4000ポンドという点と比較すれば、ウォルトの店舗がどれほど高価な商品を販売していたか理解できます。
どれほど高価なものを販売しても、シャルル・フレデリック・ウォルトは宮廷の裁縫師として財をなしていきました。
1860年、オーストリア大使夫人のメッテルニヒ公妃の衣装を手がけたことから、当時のフランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニー(ユージェニー)の目にとまり、やがて宮廷の裁縫師としてフランス・モード界に大きな力をもつこととなりました。
彼はこの頃「モードの王様」と呼ばれています。
他方、自分の商品の素材に、フランスのリヨンの絹織物を多用し、当時停滞していた絹織物業を救済しようとした尽力も見逃せません。
イギリスに押し込まれてきた絹織物業からアパレル産業への転換を考えたのがウォルトです。彼は1868年「パリ・クチュール組合」(通称サンディカ)の元となる「フランス・クチュール組合」を創設しました。
死後
1895年、シャルル・フレデリック・ウォルトがパリで没。
店舗は長男のジャン・フィリップ・ウォルト(創作担当)と、次男のガストン・ウォルト(経営担当)に引き継がれました。
この息子兄弟がフランス国籍を取得した後に、正式に「ワース」は「ウォルト」という読みで呼ばれるようになりました。
ポール・ポワレの入店にも救われて店舗は4代まで続きましたが、1954年にイギリスのマルセル・プランにより買収されました。
なお、1900年にはウォルト香水(Parfums Worth)を発表。
現在、パリ・サントル通りにその店があり、曾孫ロジェ・ウォルト(Roger W.)が経営。同族経営は香水部門にかぎられています。
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