この記事では、貫頭衣とよばれる昔の衣服からヨーロッパとアジアの衣服を考えます。
両地域にみられる共通点や相違点に注意して、衣服の世界史をまとめています。
大学で行なった講義の補足的な記事ですが、履修に関係のない多くの方にもわかりやすいように書いています。
日本の衣服(外衣)も例外ではなく、古代の貫頭衣がゆるやかに変化し、江戸時代にその形態が固定化されました。
この記事のポイントをピックアップすると次のとおりです。
貫頭衣からヨーロッパの衣服とアジアの衣服を考える
貫頭衣とはいまでいうチュニック。
ピックアップをさらに小分けにすると次のようになります。
古代の貫頭衣とは?
貫頭衣とは頭を貫く衣服のことで、図示すれば今でも世界中で見られることが分かります。
手っ取り早い例がTシャツです。
まず古代ヨーロッパの貫頭衣はこちら。
ついで古代中国の貫頭衣はこちら。
古代中国の貫頭衣は2つの種類が描かれています。
「1A」の方は前方が開いている前方開放衣で、これを貫頭衣というか微妙ですが、「1B」は典型的な貫頭衣です。
古代ヨーロッパの貫頭衣と同じく頭を入れる部分に穴が開いていて「頭から被る」衣服です。
東洋の古代貫頭衣
中国の貫頭衣をもう少し見ていきましょう。
次のイラストは男女別の貫頭衣の着用例を描いたものです。
留意点
女性の貫頭衣は被っているように見えます。
男性の貫頭衣は肩に掛けているだけのようです。
どちらも貫頭衣だとして、次のような問題点があります。
つまり、男女差がこれほど明確だったかということです。
女性の貫頭衣はスカート部分やレッグウォーマー風の脚衣も含めて保身の役割を持っています。上半身や股間も隠す役割もあります。
これに対して、男性の貫頭衣はどうでしょう。
上半身も股間も隠す役割しかないような具合です。
古代中国または古代東アジアは、圧倒的に農林水産業中心の経済社会ですから身体や衣服を傷めやすかったと想像します。
隠蔽だけでなく保身の役割をもつ女性の貫頭衣を男性も着ていたのではないかと思います。
貫頭衣の特徴
古代ヨーロッパの貫頭衣に対して古代中国の貫頭衣がもっている特徴は次のとおり。
- 肩掛け風で身頃まで覆う
- 背中は不明だが縫ってるかな
という点です。
古代ヨーロッパの貫頭衣のイラストを見直してみてください。
次のようにヨーロッパと中国を対比できます。
- ヨーロッパの貫頭衣は布が二の腕を十分被っているが、中国の貫頭衣は肩を覆うだけ
- ヨーロッパの貫頭衣は布の縦分量も豊富で巻いて着用し(皺くちゃの巻衣)、中国の貫頭衣はパーツごとに簡単に縫ったようで平面的
という違いがわかります。
古代中国では貫頭衣からどう発展したかを「ワンピースの深衣や直裾袍はチャイナドレスの源流か」(外部サイト)でまとめています。ぜひご覧ください。
日本の衣服(外衣)はゆっくり変化し江戸時代にどうなった?
この項目は私のミスで、変化したのではなく多様になったということです。
貫頭衣→小袖(今の着物)という変化を説明しようとしましたが、変化ではありません。
日本の衣服は多様になりました。正確かつシンプルにいいますと、大昔は貫頭衣だけで、この貫頭衣はTシャツのように現代でも日常的に着られていています。
着物(和服)系は飛鳥時代に大袖、中近世に小袖が出てきて、今は小袖を浴衣や振袖などといってイベント衣装になっているということです。
中世ヨーロッパの貫頭衣・巻衣・裸体
ヨーロッパの貫頭衣を示す一つの絵があります。
15世紀ヨーロッパの服装をみると、まだまだルーズだったことが分かります。
留意点
15世紀のヨーロッパでは貫頭衣だけでなく、裸体や巻衣も日常的だったことがわかります。
15世紀ヨーロッパの服装はまだまだルーズでした。
15世紀というと、欧州で洋裁が誕生して1世紀以内の時期ですから、地域や人によっては今のような洋服を着ていないという人も多いことが分かります。
貫頭衣の特徴
黒色の貫頭衣を着た女性を見ましょう。
肩掛け風に貫頭衣を使っていて身頃(胴体)まで覆っています。
しかし、帯や紐で締めていないので、風が吹いたら放っておくんでしょうか…。
もっとも、服がめくれて恥ずかしいとか、相手の裸体を見るとか、こういう関心を中世の人たちがもっていたとは思えませんが。
チュニック(tunic)はほっそりとした筒形シルエットの衣服。
腰下や膝丈までのシンプルなドレス、ジャケット、ブラウスが代表的です。
古代の連袖とは違い今のチュニックには袖付けが行なわれ、多くはセットイン・スリーブになっています。
一部に丈の長い略式の軍服やカトリックの聖職者がミサ時に着る丈の長い祭礼服をチュニックと呼ぶこともあります。
チュニックの歴史と正しい説明
語源
チュニックはラテン語の「衣服」を意味するチュニカ(tunica)から派生した言葉です。「下着」と訳される場合がありますが、これは訳語は間違い。
ラテン語を使っていたローマ市民は下着兼上着として着ていた場合が多いので。下着としてチュニックを着れる立場と上着として使わざるを得ない立場があったことを想像して下さい。
チュニックの原型は貫頭衣
全てのファッション辞書がチュニックの構造に触れていませんので、先にこれから説明します。チュニックの原型は貫頭衣です。西洋では貫頭衣は14世紀頃まで一般的な衣服でした(貫頭衣の印象)。
「Roman clothing | Fashion(外部リンク)」にも古代ヨーロッパでは何よりも服がシンプルである必要があったこと、そして針が使いにくくステッチや縫製が最小限に抑えられていたことが記されています。
ヨーロッパでは古代から2メートルくらいの幅広い生地を織っていました。着る時はその生地にボタンやブローチを使って肩で留めていました。つまり前後2枚重ねにするわけですが、その生地を水平にすればチュニック、90度傾ければポンチョになるわけです。
「Roman clothing | Fashion」では肩縫いの場合もあったと記されていますが、ステッチや縫製の困難さを考えると、古代になればなるほど縫製の施されたチュニックは少ないと考えられます。
辞書批判とチュニックの新しい説明
チュニックはローマ市民が着用し、袖付きや袖無しの筒形をした日常着でした。膝丈や足首丈の長さで装飾の少ないゆったりした服でした。ベルトは付いたり付かなかったり。
色んな辞書をまとめるとこのような説明になります。チュニックの原型を思い出すと、この説明では足りません。貫頭衣からチュニックの分化を説明する必要があります。
貫頭衣は東アジアでは背縫いの習慣がありました。これに対しヨーロッパでは肩留めになります。
つまり、チュニックとは貫頭衣の一種で、布を前後に重ねてボタン、ブローチ、縫製などで肩を形成し、臀部(お尻)を覆うエイチ・ライン(または緩いエー・ライン)の衣服、ということになります。
したがって着る方法は基本的に「被る」ということになります。また肩を形成するボタン、ブローチ、縫製などの片方を外せばチュニック・グレック(tunic grecque)になります。
チュニックの種類
チュニックには多くの種類があります。
チュニックは布を水平に使った衣服とほぼ同義なので、貫頭衣からチュニックとポンチョに分化した点をふまえると、ほぼ全ての衣服に当てはまります。したがってチュニックの種類は厳密な区分ではありません。
肩縫線が当たり前の現代では、臀部(お尻)を覆う丈以上の長さをもったエイチ・ラインの衣服としてチュニックという言葉が使われています。
- チュニック・コート(tunic coat)…腰丈までの短めのコート。
- チュニック・ジャケット(tunic jacket)…腰丈以上の長いジャケット。チュニック・ジャケットのうち、トルコ辺りで着られていた上衣カフタンをヒントに両脇に長いスリットを入れたものはカフタン・チュニック。同じく両脇に短めのスリットを入れたのは中華風チュニック(チャイニーズ・チュニック)。
- チュニック・シャジュブル(tnique chasuble)…シャジュブルは袖なしのこと。丸いネック・ラインで丈が長く脇が空いたチュニックのことで、聖職者が着るチュニックに似ています。
- チュニック・スカート(tunic skirt)…普通のスカートの上にさらに短いオーバー・スカートの付いたもの。このうち、上のスカートの後が縦に割れている場合はエプロン・チュニック、前後に付けた2枚のハンカチーフ状のオーバー・スカートの場合はハンカチーフ・チュニックといいます。また、スカート部分が膨らんだ二重スカートはアルジェリア風チュニック。
- チュニック・スーツ(tunic suit)…腰丈までの長いジャケットとスカートまたはズボンの組み合わせ。ロング・ジャケット・スーツともいいます。
- チュニック・ブラウス(tunic blouse)…エイチ・ラインのオーバー・ブラウスの総称。膝丈辺りまであり、ベルトの付いたものが多いです。ウェストにはギャザーが入ったものと入らないストレートなものがあります。
- チュニック・ドレス(tunic dress)…オーバー・ドレスの同じく細いスカートの上に長めのジャケットを組み合わせたもの。スカートがほとんど見えないのでドレスといわれます。1955年にクリストバル・バレンシアガが発表しました。彼の作品は特にチュニック・ラインとも呼ばれました。スカートの代わりにパンツに重ねることもあります(この場合チュニック・スーツとも)。また、ミニ・ドレスとしてオーバーブラウスだけで着ることもあります。チュニック・ドレスのうち、パイプのように細いシルエットのチュニックで、打ち合わせが後身頃にあって上から下までボタン留めの形態をしたドレスはチューブラー・チュニック。8分の7丈のルダンゴト(シェーブ・コート)はルダンゴト・チュニック。
貫頭衣(チュニック)からの離陸方法の東西
貫頭衣以外の衣服を作ろうとする動きは東洋でも西洋でもみられました。
それぞれ方法が異なります。
ふつう、貫頭衣(チュニック)は水平な肩袖(平肩)になっていて、布幅が足らないために袖つけをしています。衣服の肩あたりで生地の模様が変わるものがよくあります。
このような平肩衣服は東洋でも西洋でもよくあり、20世紀初頭くらいまでは多くの人類が着ていたと考えられます。
東洋と西洋で少し違うのは、東洋では紀元前から裁縫が活発だったのにたいし、西洋では14世紀末ころから裁縫を駆使した服を一部の人が作りはじめた時差です。
東洋
東洋では20世紀まで一貫して平肩衣服が作られ、また着られていました。
もちろん、中国や日本などのように19世紀半ばの開港によって洋服も入ってきた地域は平肩衣服が100%と言う訳ではありません。
東洋の民族衣装、漢服・旗袍・한복・着物をみますと、20世紀前半になっても、平肩の形を採っているものばかりです。
この理由の一つに、東洋には毛織物よりも柔らかい絹織物が豊富にあって、布を簡単に切って簡単に縫う作業で服を作れた理由があります。
平肩など、身体でいう肩や袖に接する部分の形態は「東アジア民族衣装の展開:袖と衣裳からみた古代中華圏の影響」をご覧ください。20世紀前半に平肩をやめた民族衣装とやめなかった民族衣装を図示しています。
西洋
他方、西洋はどうだったのでしょうか。
簡潔にいいますと、一部ですが平肩をやめた衣服が14世紀末に出てきました。
その技術的な根拠は1375年に開発された鋼鉄製の縫針です。それまでは単なる鉄の縫針でした。
それまで西洋で広く普及していたのは毛織物です。
毛織物は絹織物に比べて格段に硬く分厚い布です。これを縫うとなると、折れにくい硬い縫針が必要になります。
ですから、布(織物)の幅を東洋よりも2倍や3倍以上につくって、布を裁つだけで服を作る方向、いいかえればパーツに切られた布を縫いたくない方向へ西洋は向かったわけです。
東洋にも貫頭衣が普及していましたが、西洋では切実な理由で貫頭衣(ほかに巻衣など)が必要だったわけです。
そのうえ、1375年に鋼鉄針が開発されてから、西洋では衣服を縫いやすくなりました。
裁つことも縫うことも試行錯誤する条件が整ったわけですから、これ以降、裁縫や洋裁とよばれる服づくりの技術がいろいろと開発されていきます。
洋裁の誕生―西洋の離陸 or 西洋東洋の逆転―
上に述べたとおり、14世紀末に鋼鉄針が開発されてから、洋裁(西洋裁縫)が誕生しました。
14世紀中頃には型紙が開発されていたともいわれます。
ただし、教科書やマニュアルのような体系化は今でもされてきていません。
ヨーロッパのいろんな地域のいろんな人がバラバラに知恵と努力を投入して、今でも大事になる技術がバラバラなまま現代にまで引き継がれてきました。
バラバラに開発されてきた洋裁技術を「中世・近代の単発的発展」として次項に述べます。
中世・近代の単発的発展
西洋が開発した袖は他にもたくさんあります。ラグラン・スリーブ、ドルマン・スリーブなどなど。
衣服変形の洋裁技術
衣服を変形するうえで大切な技術はダーツとタックです。
とくにダーツは男性・女性の身体ラインをはっきりさせるメリット(場合によってデメリット)をうみます。
ダーツはこちらをご参照ください。
タックはウエスト左右に1本から2本ほど入れるのが基本です。
とくに男性用パンツ(スラックスなど)をご覧ください。
衣服装飾の洋裁技術
衣服を装飾するうえで大切な技術はギャザーとプリーツです。
ギャザーはこちらをご参照ください。
ギャザーの基本動作は「寄せて縫う」のですが、プリーツは「畳んで縫う」作業です。
一例に、ギャザーを施したスカートはフワフワ、プリーツを施したスカートはヒラヒラな感じになります。
西洋東洋の逆転:二重の洋服化
20世紀になると洋裁は東洋へ影響を与えました。
この影響を私は「二重の洋服化」と呼んでいます。
どういう点で二重なのでしょう。
- ヨーロッパから輸入した洋服が東洋に普及した
- 東洋の伝統衣装(民族衣装)が洋服要素や洋裁技術を導入した
この2点です。
1点目は広く日本のファッション史や服飾史が述べてきたことですので、ご関心があればその辺の本をご参照ください。
問題は2点目です。
中国の漢服、旗袍、朝鮮のチョゴリ、日本の着物、ベトナムのアオザイは、全て洋服の要素を取り入れたり、洋裁技術を採り入れています。
これらの具体的な内容を考えるキーワードは「民族衣装の洋服化」「民族衣装の西洋化」です。
和服(着物)の洋服化はこちらにまとめています。
旗袍(チャイナドレス)の洋服はこちらにまとめています。
また、上半身を短く下半身を長く見せる黄金律をふまえた着装も西洋の影響を受けています。
黄金律(黄金比・黄金分割)の民族衣装への影響はこちらに詳しくまとめています。
まとめ
貫頭衣からの離陸方法の東西をみてきました。
ファッション史からみた西洋の離陸とは洋裁の誕生だったわけです。
洋裁は貫頭衣の裁縫とは違って、西洋裁縫という確固たる地位をもちました。この時期は鋼鉄針の開発された1375年以降、おおむね中世(14世紀・15世紀)です。
それから6世紀を経た今でも洋服や洋裁は私たちの生活に溶け込んでいます。
「服」といえば「洋服」です。もはや「洋服」という言葉は「和服」という言葉と同じくらいに死語になっています。
「和服」が20世紀に窮屈になったことを憂えた点から着物の歴史をたどる姉妹サイト「着物ライフ」へもお立ち寄りください。
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