貫頭衣からテーラリングへの展開は人類のファッション史で最も重大な出来事でした。
古代東アジアではお馴染みのこの衣服、なんと西洋では14世紀くらいまでは一般的だったそうな。後進地域ヨーロッパでテーラリングが発生した理由はその後進性でした。
貫頭衣からテーラリングへ
この火曜日・水曜日の2日間、あっという間に仕事が終わって、やっぱりビビる大丸弘論文。
貫頭衣の普及から テーラリング 技術の勃興まで、大雑把に印象を。
大丸弘『西欧型服装の形成―和服論の観点から―』国立民族学博物館研究報告別冊4号、1987年2月
(以前の感想はこちら〔近代日本の導入した洋裁:大丸弘「西欧型服装の形成」を読む〕)
先週と今週で一番衝撃だったのは、貫頭衣の説。
貫頭衣は原始的な衣服で、布を縦長(多分)に使って、真ん中を頭部程度にくり抜いてザックリ被った上体衣です。
貫頭衣の印象
中国衣服史でも日本衣服史でも必ず、貫頭衣の説明から始まり、その脇下を縫うことで袖概念が発生したとか、前と後を割って(裁断して)縫うようになった(帯の発生につながる)とか、そういう説明が続くんですが、「前と後を割る」という理屈が今まで分かりませんでした。
これが後藤守一の説。
後藤は貫頭衣から着物を説明するために、貫頭衣の胸前を割るという発想を導出しているんですね。
それに、飛鳥時代には支配層たちは着用してないし…(民衆レベルでは残ったはずだけど)。日本ではその後、中世には民衆レベルでもかなり消えたはず。
大丸論文では、貫頭衣はむしろ西洋で14世紀くらいまでは一般的な衣服だったそうです。
こんな深い話聞いたことない(笑)。
根拠は毛織物。
東アジアの絹織物よりもヨーロッパの毛織物の方が堅い・厚いので、裁縫技術から見るとヨーロッパは裁断に向かい、東アジアは縫合に向かいました。それが中世までの傾向だと…。
だから、毛織物の西洋は広幅に織る方向に無かって、189センチというかなり長い織物幅を実現させたと…。なるほど。
となると、アジアでは「前と後を割る」という後藤説は間違っていて、「割っている」のではなく、背中中心を縫ったのであって、前を打ち合わせて帯締めするという技術段階を想定できますね。
テーラリングの発生
そして、どこまで調べんねんと度肝を抜かれたのが、1375年のイギリスで開発された鋼鉄針。
これによって毛織物を縫合する時に針が折れないという技術段階に到達したと…。
そういう訳で、14・15世紀には、いわゆる洋裁技術(Tailoring テーラリング )の基礎ができはじめ、その後はアジアよりも優勢的な技術優位の段階に入ったと…。
日本を研究するためには中国も欧州もアメリカも勉強しないと語れません。
3冊目の本で、洋裁技術の西洋における確立、この点を追求せねばと思っていたので、かなり助かりましたが、3冊目の本は大丸弘先生要約集みたいなものになりそうで怖い(笑)。
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