本書は18世紀アイルランド・リネン業の動向をイギリスの産業革命や綿業との関係から論じたものです。
広く知られるようにイギリス産業革命は綿糸生産と綿織物生産を促進する機械の開発から始まりました。それまで毛織物業と麻織物業を主力としていたイギリスで綿業から工業化が始まったのはインドから綿花や綿糸を輸入していたからです(詳細は「イギリス綿業の勃興」をご参照ください)。
それでは毛織物業と麻織物業はイギリス内部でどのように変動したのでしょうか。それを本書はアイルランド・リネン業から紐解きます。
本書の関心
経済史の背景
イギリスで綿業部門の工業化が開始されると綿織物は汎用衣料として麻織物と競合関係に入り、やがて麻織物を駆逐していきます。そして19世紀に工業化に成功した麻織物業地域はアルスターのみとなりました(麻糸生産も含む)。
研究史の背景
この背景があって従来の研究では工業化に立ち遅れた麻織物業(麻紡績業も)という先入観が生じ、イギリスやランカシャーに麻糸や麻織物を供給していたアルスター地域だけがイギリス麻業、しいてはアイルランド麻業の代名詞となったわけです。しかし、アイルランド麻業は実は麻だけではなかったというのが本書の関心の一つとなります。
本書の関心と特徴
経済史と研究史の背景をふまえて本書は、アルスター以外の地域にも目を配ってアイルランド・リネン業を論じます。また、イギリス綿業との関わり、対インド貿易、イギリス産業革命による世界貿易といった大きな枠組みも意識します。
本書の分析対象となる3種類の織物
先ほど、麻糸生産と麻織物生産をまとめて麻業と乱暴に私は書きました。これは従来の経済史研究者たちが簡単に綿業と呼んでおいて他の繊維についてはきちんと産業名を名づけて来なかったことへの嫌みです。
本書が分析対象としている織物はキャラコ、リネン、ファスチアンの3種です。
キャラコ
これは17世紀末のインド製綿織物の流行時にイギリスへ流入した「東インド製綿織物」(同書35頁)です。これを軸にリネンやファスチアンの意味合いを本書は比較検討していきます。まずはリネンから。
リネンの意味 : リネン業とは何か?
著者はおそらく呼称なき部門の限界を知っているのだろうと思います。リネン業を論じるに当たって本書では語義定義を行なっています(37頁~40頁)。簡単に追っていくと、通常は亜麻織物や亜麻製品と訳されるリネン(linen)は亜麻製の糸やそれを織った生地と指します。
しかし本書が述べるように、イギリス綿業の進展とともに亜麻製品だけでなく、それまで亜麻製品であった衣類に綿製品が使われるようになった場合でも、その衣類はリネン製品として理解されました。すなわち綿生地(綿織物)であってもリネンと呼ばれるということです。
ここで著者が持ってくるのが生産者に対する同時代人の視点です。従来の研究では純麻の織物を亜麻業(リネン・マニュファクチュア)、経糸に麻、緯糸に綿を用いた麻綿混織物を綿業(コットン・マニュファクチュア)と呼んできました。しかし、同時代人の生産者や消費者の立場からは必ずしもその区分が正しいわけではないことを強調します。つまり、純麻の織物とともに一部の麻綿混織物をリネンと呼んでいました。
ファスチアンの意味
ファスチアンは麻綿混織物の一部を指すのですから、リネンの意味が拡大することでファスチアンにも何らかの影響があります。そこで本書は辞書や百科事典を紐解いて、遅くとも19世紀前半にはファスチアンがほとんど綿織物であったことを導出します。そして毛織物の代替として利用されたとも指摘します。
3種類の織物のまとめ
少々ややこしいので一旦ここでまとめます。3種類は次の通りです。
- キャラコ : 東インド製綿織物(消費者嗜好はリネンと同列)
- リネン : 純麻織物および麻綿混織物(消費者嗜好はキャラコと同列)
- ファスチアン : 綿織物(消費者嗜好は毛織物と同列)
本書の良い点と難点
本書の良い点
これまで述べたように本書はリネン業をはじめとする語義の説明を丁寧にすることで従来の研究を相対化しています。他方でアイルランド・リネン業を地域内動向と世界動向から論じた視野の広いものです。
特にイギリス重商主義政策のもとでアイルランド・リネン業が植民地産業の性格をもたされマンチェスター綿業ネットワークに編入されていく経緯(第2章)や、その結果アイルランド内でドイツ製リネンの模倣産業化が促進され(第3章)、やがて粗製乱造問題としてマンチェスター綿業を揺るがせ1764年法制定に至った(第4章)流れは非常に分かりやすくダイナミックです。
本書の難点
本書の難点を2点。一言でいえば章立てに失敗しているということです。
語義説明がなぜ序章ではなく第1章に書かれたのか?
基本事項は序章に書くべきです。第1部は「ランカシャー・リネン業の発展とアイルランド・リネン業」であり、他方で副題には「イギリス綿業史研究の論点」とあるので経済史を論じるのか研究史を論じるのか、動揺が見えます。実際に第1章で研究史と語義説明、第2章で経済史。これは読みにくいです。
第5章は終章と混ぜて大きくして良かったのでは?
第5章は第2部「アイルランド・リネン業の発展の模索」、副題は「18世紀アイルランド・リネン業像の再考」ですから、また経済史と研究史が混ざった感じになっています。第2部のうち第3章・第4章が経済史、第5章が研究史または経済学という風に分ける事ができます。
本書の醍醐味
私はこの第5章「18世紀アイルランドにおける麻糸生産―紡織のアンバランスに注目して」を面白いと感じました。副題がアンバランスなのですから経済学ですよ(笑)。要するにこれまでの事実をふまえて紡糸地域と織布地域の違い、あるいは紡糸地域に必ずしも織布業が定着するのかしないのか、こういったことを丁寧に考察しています。たとえばこうです。
ある州が生産する糸の量が、その州の織布で必要とする量を超えている場合、糸は州外へと移動する。(中略)しかし、糸の生産量がその州の織布で必要とする量を超えていなくても、つまり織布で必要とする量とは関係なくとも糸は州外へと持ち出されていた。(同書182頁)
この下りにやっと著者が動いたかという印象を受けました。そして一時的にせよ次のような地域内経済の充実度が高まった点は面白いです。
理念・ボードが目指した地元の糸を使用した粗質リネン製造に力を入れていた事例が多く確認できる。大事業主による大規模製造だけでなく、小規模に製造されたリネンの買い入れによって、草の根レベルでのリネン業の成長が紡織のアンバランスを解消するかたちで目指されていたのである。(同書197頁)
感想
序章で強調された消費への着目というのは研究上の最近の流行なのでそんなものは無視して(経済史家に消費なんて書けっこないんだから)、地域内および地域間の影響関係をもっと徹底して第1章から論じてほしかったというのが感想です。消費なんぞに目を奪われるから途中で衣服が出てきて浮いてしまうわけです。衣服は泥沼ですぞ…。私はチャレンジしていますが。
地域内および地域間の影響関係に徹底すれば、終章「織物業研究の新しい論点の探求へ」に掲げられた「本書の論点のイメージ」という分かりやすい図と接続するでしょう。イギリス、ランカシャー、アイルランドという地域区別に、キャラコ、リネンなどの製品区分が重なったダイナミックな図です。もちろん、この図をなぜ序章で示してくれなかったのかという疑問もあります…。
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竹田泉『麻と綿が紡ぐイギリス産業革命―アイルランド・リネン業と大西洋市場―』ミネルヴァ書房、2013年
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