ファッション史研究(衣服史研究や服飾史研究など)は、消費に注目しすぎて生産を無視する傾向があります。
このページでは、なぜ衣服史研究はダメ(駄目)なのかについて理由を述べ、ダメな研究と良い研究の見分け方を説明しています。
関心:今までのファッション史はなぜダメか
モードのジレンマ
ファッションには新しさの意味があります。
でもモードは一枚岩ではありません。
モードには新しさの意味と、過去に縛られた意味があります。モードのジレンマです。モードやファッションの詳しい意味は「モードとファッションの意味や関係から途上国日本の文化を考察」をご覧ください。
このジレンマを従来のファッション史研究は隠し、全て新しいものかのように書いてきました。
この点は歴史家全員に当てはまることかもしれませんが。その上、この分野の研究にはモードを高級ファッションに限定した功罪もあります。
一対一に未対応
どんなことにも言えますが、一つの物や事柄と一つの言葉とは対応していません。
モードの世界では特にそう。一つのアイテムに複数のファッション用語が重なります。逆も然り。
その上、ファッション用語独特の問題もあります。
- 新しいアイテムやリバイバル品は全部カタカナ
- 世代や属性によって言葉を共有しにくい
- 同じアイテムや似たアイテムなのに、言葉が目まぐるしく変わる・異なる
今日の流行りは明日のゴミ。
カタカナの弊害
日本の場合、外来語のファッション用語が全てカタカナにされた歴史があります。その過程で言葉の使い方や妥当性は吟味されませんでした。
ちょっとは考えろよ。
また、文化的なファッションの世界と経済的なアパレルの業界では、同じアイテムを別の言葉で説明する場合があります。
前者は主にフランス語、後者は主にアメリカ語をカタカナにしてきました。
おフランスとヤンキーの分裂。
ファッション史の研究水準の低さを憂えた記事をぜひお読みください。
モードの世紀の説明方針:文法と観点
そこでモードの世紀は次のような説明方針を設定しています。
文法
- カタカナだけでなく漢字と原語を意識する
- 内容が複雑なものは「ポイント⇒パターン⇒時系列」の順に叙述する
観点
- 一つのアイテムを説明する時、複数の観点(製造・販売・着用など)を参照する
- 一つのファッション用語を説明する時、複数のアイテムを参照する
- どちらを説明する時でも、時期による変化と不変化を補足する
こういった方針から、モードの世紀ではアイテムや言葉を説明する時にジャンルの小分けと時間の小分けを重視しています。
そのため段落単位では分かりやすく、記事全体としては詳しくなっています。
言い訳はこれくらいで。
ファッション史研究の問題 : 裁縫とミシンを無視
衣服史において、裁縫とミシンは無視されてきました。衣服は着る物であって作る物ではないかのような扱いを受けてきました。
それは日本が欧米より遅れた近代化を土台として、衣服を輸入する物として出発したからです。また、従来の裸体や着用衣服が軽視されるようになったからです。
衣服用語の近代化
長期的に繊維・衣服生産の歴史を振り返れば、20世紀の日本が体験した衣服産業化は台風とでもいうべき事態でした。同じ衣服でも呼称は様々です。
20世紀は、日常会話からアパレル業界や政府統計にいたるまで、実に様々な面において人々は衣服用語が収拾不能の事態に直面しました。衣服史研究においてもこの事態が反映されています。
20世紀前半の日本では、生産者と消費者が隣接していたにも関わらず、業界用語と流行語が混在し、カタカナ化が大きな比重を占めていきました。政府統計にのぼる衣服品目名も非常に曖昧なものに留まりました。
衣服用語は、原料繊維、品目、形態による区分が混在している上に、その時々の流行語が盛り込まれ、類似した衣服形態でも様々に呼称されました。
さらに、化学繊維の急速な開発・普及によって既に20世紀前半には天然4繊維(絹、麻、毛、綿)の比重が低下して化学繊維が大きなウェイトを占めるようになりました。
これらを要因として、日常会話、業界用語、政府統計にみられる用語の距離は大きくなりました。衣服史研究が課題とする「衣服の歴史」が説得性の乏しい空虚な結果に陥り続けているとしても、致し方ありません。
でも、この状況に研究者が甘んじてはいけません。
問題の背景 : 服は買うもの?作るもの?
ファッションが衣服や服装と同義的になった20世紀第4半世紀以降、衣服は作る物よりも着る物であると思われるようになりました。
この要因には、1つに、縫製工場(自家生産・委託生産)が国内移動か海外移転をしたこと、2つ目に、家事労働・受託生産(内職)・独立操業など、総じて家庭内における衣服生産が減少したためです。
しかし、衣服が身につける物である以上、同時に、作られた物であることに何ら変わりはなく、製造側の光景を近傍で目にする機会が減っただけに過ぎません。日本のファッション雑誌や婦人雑誌から型紙が消えたのは、1970年代・1980年代のことです。
ファッション雑誌・婦人雑誌は世界中どこでも同じ状況ですが、20世紀初頭のアメリカ『ハーパース・バザー』誌では、上に掲げたように シンガー社のミシン広告が掲載されていました。
当時はまだ服を買うものだけでなく作るものでもあると認識されていたことが分かります。女性向けファッション雑誌におけるミシン広告や型紙付録の減少と消滅は家事労働や趣味としての裁縫の減少を示す重要な指標です。
繊維産業の機械類で比較して、ミシンがイギリス産業革命で開発されなかった理由が次の生地に書かれています。
参考 なぜミシンの開発は遅れたか(外部リンク)
朝廷では膨大な人間が裁縫労働に投入されていた
紡績業や織物業に比べ、縫製業は繊維部門のなかで生産主体が目立ちませんでした。
古代から糸や織物は徴税対象になったか商品化されたのに対し、衣服は徴税対象とならならず、商品化も実現しませんでした。
裁縫集団の存在も知られておらず、朝廷の場合では縫殿寮を初めとする諸部門が辛うじて律令・格式に登場するに過ぎません。
757年に施行された基本法令「養老律令」は「職員令」と「後宮職員令」から構成され、アパレル産業でいう川上(紡績部門)・川中(織物部門)・川下部門(裁縫部門)を明記しています。
「延喜式」に至るまで職員の部署は異動が激しいですが(阿部猛編『増補改訂 日本古代官職事典』同成社、2007 年、「はしがき」)、大まかには次のようにまとめられます。
紡績部門は「糸所」、織物部門は「織部司」に限定されているのに対し、裁縫部門は、「內藏寮」と「縫殿寮」が中務省管轄内に、「典縫司」、「縫部司」、「縫司」、「縫女部」が大蔵省管轄内に配置されていました(同上書)。
799年(桓武期)に、中務省縫殿寮と大蔵省縫部司が合併し、大蔵省縫部司へ一括されました。この際、縫女部には女嬬という職種が補充されています(浅井虎夫『新訂 女官通解』所京子校訂、講談社学術文庫、1985年)。
現段階で私が把握している職員数は織物部門の「織部司」で15名であるのに対し(ただし、下部組織として作業者数は増えるでしょう)、裁縫部門では、中務省管轄内で200名程度、大蔵省管轄内で50名程度の規模をもっていました。967年施行の「延喜式」以後は女嬬だけでも100名にのぼります。(浅井虎夫『新訂 女官通解』を当サイトで紹介しています。こちらをご参照ください)
このように、織物部門に比して裁縫部門の職員数が大規模であるのは、衣服が租庸調の対象とならず朝廷内で生産する必要があったからです。
また、朝廷で着用された礼服・朝服・制服などは、袞冕十二章服(冕服)に代表されるように多種類の品目によって構成されていたため、多様な品目を生産する必要がありました。
律令や格式を題材に礼服・朝服・制服を取り上げた衣服史・服飾史研究は多いので、代表的な著作のみを以下に挙げます。
- 元井能『日本被服文化史』光生館、1968年
- 山名邦和『日本衣服文化史要説』関西衣生活研究会、1983年
- 谷田閲次・小池三枝『日本服飾史』光生館、1989年
- 高田倭男『服装の歴史』中央公論新社、2005年。初版は、中央公論社、1995年
これらのうち谷田・小池の共著は、簡単に朝廷内の裁縫工程にまで言及した点で高く評価できます。
ファッション史研究の問題 : 二分法の問題
ここでは、洋服・和服を軸にした二分法が衣服史研究や啓蒙書に蔓延している問題点を要約し、20世紀最後の4半世紀以降に活発化した写真利用の問題と合わせて衣服史の問題点として論じます。
衣服史研究の視点は、ユーラシア大陸で広くみられた衣服形態の類似性を見落としています。
洋か和かという二分法の問題は、洋服の対概念として機能してきた「和服」の実像まで削ぎ落とされるという重大な問題を孕んでいます。
研究者たちは二元論で分析してきたつもりでしたが、
形態に対する呼称の多様性 : 和服とは何か?
いわゆる和服とは袖口をやや緩めに残し,残りの部分を縫った袍形式の衣に帯を締めた長衣という形態を指しますが,この形態の発生は日本よりも遙か昔に中国に見られます。
どれほど時期を浅くみても周代,すなわち紀元前にまで遡ることができます(华梅『人文中国书系 中国服饰』(五洲伝播出版社,北京,2004年,16頁)。
中野香織によると、スーツないし背広と呼ばれてきた衣服の場合、「襟つき長袖上着と筒型の長ズボン」(中野香織『スーツの神話』文藝春秋、2000年、26頁)を基本に「上着+ズボン+ヴェスト+シャツ+タイ」(同28頁)から構成される「男性服のシステム」だと説明されています。
現物ではなくシステムとしてスーツを理解した点は興味深いですが、「襟つき長袖上着」も、中国や日本などでみられた筒形上衣である以上、形態としてはスーツの説明になりません。
この点に衣服史の困難さがあります。
呼称ではなく形態と組み合わせとを軸にみれば、タイを除いた「上着+ズボン+ヴェスト+シャツ」の組み合わせは既に奈良時代の日本で普及しましたし、ズボンの替わりにスカートであるならば平城京宮廷婦人たちの制服として採用されていました。つまり、ロング・スカートにヴェストというツーピース形式が採用されていました(高田倭男『服装の歴史』中央公論社、2005年、82頁)。
このように、衣服史においては形態に対する呼称の多様性は大きな問題を投げかけています。
種々の衣服用語からは多種多様の衣服が存在したと考えられがちですが、衣服形態そのものは古今東西を問わず簡潔なものであり続けてきた点に注意して叙述すべきです。
20世紀初頭に広まり始めていた「洋服」語は、日本衣服史に大きな位置を占めてきました。
洋服は西洋由来の服というのが定義である以上、極めて限定的な意味をもちます。
そこに明示されているのは、背広、コート、ドレス、ワイシャツ等の衣服デザインの出自がヨーロッパであるということに過ぎません。
いずれ日本でそれらのデザインが作られるようになると、その衣服は洋服と呼ばれました。
洋服史研究と和服史研究を貫くもの
資料アクセスの問題
19世紀までを対象とした場合は特に、衣服史研究では支配者層の服装に関心が集中してきました。
もっとも、宗教や政治などの支配的側面から関連づけて衣服を論じる重要性は否定できませんが、そのような研究では、圧倒的多数を占めていた庶民の職業上の服装や室内での服装などの具体像が抜け落ちてしまいます。
これまで、文化史・社会史を中心とした衣服史は、西洋衣服史にしろ日本衣服史にしろ、資料へのアクセス条件を満たした研究者たちによって、貴重資料のみに拘泥した形で展開されてきました。
たとえば深井晃子の場合、服飾は「時代の美を集約する美的作品」として、ヨーロッパ、とくにフランスの服飾を位置づけています。
これに対し、現代美術を念頭に置きつつ美術の受容と不平等について問題提起した論考が白川昌生『美術、市場、地域通貨をめぐって』(水声社、2001年)です。
同書は、美術品の恣意的選択がなされた上でそれを流布する主体が教育水準と出身階層に大きく起因しており、コード化を共有する者たちとして機能している点をピエール・ブルデューやヴァルター・ベンヤミンの社会論・模倣論と関連させて看破しています。
衣服形態無視の問題
20世紀日本の洋服普及へ関心が寄せられた近年の研究に小泉和子編『洋裁の時代―日本人の衣服革命』(OM出版,2004年)が挙げられます。
同書では20世紀転換期に庶民に知られるようになった洋裁・ミシンが趣味・内職・独立操業の形態で多用された点が活写されています。また小泉和子編『昭和のキモノ』(河出書房新社,2006年)は,20世紀前半の特に「昭和」期を念頭に「キモノ」を取り上げた本です。
この本では「広い意味の衣服」としての「着物」のうち、「いわゆる和服」が「キモノ」とされていますが(同4頁)、「いわゆる和服」の形態的な説明は一切ありません。
また、下位区分に当たる品目を例に挙げることもなく,一方的に読者側へ説明の補足と懐古的な共感を要求しています。
近年の衣服史にみる水準はこの程度に留まります。このような水準は、19世紀中後期の学生服に関する研究についてもよく見られます。
たとえば、佐藤秀夫は、19世紀後半における女学校の制服の変遷を、1870年代の和服・和装から洋服・洋装への転換と、1880年代の和服への一時的復帰という2つの文脈で論じています(佐藤秀夫「Ⅲ 学校における制服の成立―教育慣行の歴史的研究として」(同『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社,2005年)。
1870年代の女学校における和服が江戸時代中期に「着物」として成立したとみる一方で、その「着物」の起源を遊郭女性の服装に求めます。佐藤の場合の根拠は今和次郎をはじめとする先行研究です。
同書では、着物、和服、洋服などが「」を付して記されており、佐藤自身の定義づけをせずに制服本体の動向も論じていません。女性を被差別的な存在と断定することに関心が向いてしまい、衣服は無視されています。
これに対し、小林正義『制服の文化史―郵便とファッションと』(小林正義『制服の文化史―郵便とファッションと』ぎょうせい,1982年)は郵便局員の制服形態にも配慮した緻密な研究として高く評価できます。
和服・洋服の着用習慣にみる変遷を論じるならば,衣服形態の描写と分析は必須です。
写真資料の登場と弊害
これらの研究では、概して、和服が「洋服ではない衣料」であるという前提に立っていると考えられます。「洋」が西洋である以上、欧米中心史観を無前提に踏襲した二分法に依拠した研究群が多いことが分かります。
これらは、20世紀初頭に収斂していく和服・和装の変貌を無視し、洋服は作る物として和服は着る物として捉える傾向が強いです。
細部の写真史料や叙述は具体像を示しているのに対し、着想の枠組みそのものは、きわめて懐古的かつ抽象的な衣服史となっています。
20世紀中後期には写真史料が豊富になったために、文字媒体に比べ写真媒体の方が読者の共感を促進させた半面で、衣服史研究の貧困を招く結果となりました。
衣服形態に即した数少ない良質な研究
以上の問題を打開する鋭い論考が一点存在します。
かつて大丸弘は、ヨーロッパ人に理解してもらう目的においてカタカタの「キモノ」用語が成立した点を指摘し、「和服」は「洋服」と対概念であると理解することによって「キモノ」と「和服」を明確に使い分けました。
限定的にいうなら、近代のいわゆる和服長着である。一般の西欧人の理解のていどでいえば、Japanese dressイコールキモノとする方が、妥当かも知れない。(中略)長着は和服の外衣として男女ともに着用される文字どおり床までの丈をもつワンピース型の衣服で、その外からはおられる羽織・半纏・被布のたぐいとはちがう(大丸弘「西欧人のキモノ認識」『国立民族学博物館研究報告』8巻4号、民族学振興会、1983年12月号、709頁)。
《この論文のダウンロードはこちら(外部リンク)から》
大丸弘 西欧人のキモノ認識 国立民族学博物館研究報告 8巻4号 via ダウンロードはこちら(外部リンク)
「フランス詣」としてのモード研究
フランス詣に甘んじた研究
深井晃子・原由美子・石上美紀『フランス・モード基本用語』(大修館書店,1996年)に顕著なように、衣服、ファッション、ブランド、モードに関し、フランスの動向は未だに研究上の規範とされているきました。
深井晃子は、フランスについて「最も頻繁に話題に上る最強の高級ブランドの多くを生んだフランス」(深井晃子編『ファッション・ブランド・ベスト101』新書館,2001年,16頁)と認識しています。
この引用文では「最強」と「高級」が根拠無きままブランドに形容されることによって、説明項に転化されています。意味の擦り違いです。転化の際に着目されるのは「いわば経済学者が数値化しにくい曖昧な部分。しかしそれこそが、多くの人々をひきつける価値を生む部分」(同15頁)とされます。
この「曖昧な部分」は「伝統の技、吟味された材料、時代を読み込んだ美的センスなり新鮮さ、そうしたものがその商品には詰め込まれている」(同)という隠蔽を経た上で読者の理解を妄想に変えます。
深井に限らず、このような神話化はブランド品と同様に頻繁に行なわれてきました。引き合いに出されている「経済学者」は「曖昧な部分」を曖昧なままに残すことで何某かの価値が存在するかのような錯覚効果を読者に与えるには都合の良い比喩です。人文系の研究者が頻繁に使う常套手段です。
とにかく、フランスのブランドがなぜ高級なのかは説明をせずに、フランスのブランドは高級であるゆえに紹介するといった姿勢がモードやブランド関係の著書群を貫いています。
これはフランス・モードではなく「フランス詣で」という態度です。その意味で衣服史研究における文明開化は現在も継続され、留学という神話化された帰朝報告が後を絶ちません。
深井の研究が示したようにヨーロッパへ留学した事自体は凄いわけではありません。帰国後に箔が付く日本的風習はダメです。
衣服史研究にみられるカタカナ多用とカセット化
日本でなされた衣服史研究は、日本を主題にした場合に漢字媒体を駆使した細分化されてきました。
これはヨーロッパを主題にした場合のカタカナと同じです。
また、世界の民族衣装を取り上げた研究では、当地の用語をカタカナにするという手法、すなわち、ヨーロッパの場合と同様の手法が採られています。
関連書籍を捲るだけで明らかですが、ヨーロッパ衣装と民族衣装とのカタカナの数はヨーロッパの方が多いです。
ヨーロッパ衣装の場合はカタカナの豊富さ、民族衣装の場合はカタカナの一元化が行なわれています。
日本とヨーロッパを主題にした研究はいずれも用語の細分化による到達不可能性を要求しますが、民族衣装を主題にする場合は収集(コレクション)よりも軽薄なカタログ化、ないしはカセット化の側面をもっています。
衣服形態を無視した研究は書けば書くほど細分化や反復がなされるのであり、明確な根拠を欠いたヨーロッパ絶賛かキモノ絶賛という恣意性が高まります。
衣服が支配層・上流層から庶民層へ漸次的に展開する過程を衣服史というならば、これに相似して衣服研究は研究者から庶民へ漸次的に展開します。
このことは、衣服史に限らず、モードと呼ばれる現象を扱った研究においても同様です。
カセット化については、漢字にされた翻訳語とカタカナにされた翻訳語が日常生活に浸透する過程で、当初は希薄であった語義が用語を利用する人々の印象が塗り込まれ収拾不能な状態にまで混在化していく事態をカセット化として問題提起した芝崎厚士の研究が鋭いです。
同論文は日本における受容一辺倒の学問傾向を打開する方法にも迫った研究として高評価に値します。
分析二分法と対象三分野との関係 : 衣服史研究にみる差別的要素
日本で行なわれてきた衣服史研究は対象となる地域が何であれ、西洋と日本という短絡的な二分法区分を根本原理として展開してきました。
ヨーロッパの衣服文化をまとめた諸研究は、フランスやイギリスの一部の衣服に限定した上で、それらを「洋服」と一括する姿勢をもってきました。深井の場合は「西洋」こそ「世界」だとまで言っています。
日本の衣服文化をまとめた諸研究は「着物」であろうと「キモノ」であろうと、いわゆる「和服」が伝統性を有する衣服であるという前提に立ってきました。あるいは数百年間着用されてきたという漠然とした前提に立っています。
そして、日本衣服史研究の大半が19世紀中後期までを対象にして20世紀をほとんど扱っていません。また、日本衣服史研究は頑なまでに中国や朝鮮における衣服形態と「キモノ」との類似性を無視し「非西洋としての日本」とでもいうべき西洋中心的な発想に依拠して形成されてきました。
西洋とも日本とも異なる地域の衣服文化は全てが「民族衣装」の名で一括されました。
「非西洋」として同じはずの日本の場合、普段誰も着ることのない「キモノ」がカタカナとして独立的に衣服史の主役に位置することはあっても、普段誰も着ることのない点では同じはずの民族衣装として位置づけられることは少ないです。
このような傾向を振り返りますと、衣服史研究のなかに西洋と日本の平等観、そして、他地域に対する日本の優越感が塗り込められていることは否定できません。
もはや研究を超えて、ただの差別になっています…。
もっと平坦に謙虚に衣服史や民族衣装を捉えなければなりません。
それを助けてくれるのが意外に意外、子供向けの図鑑、高橋晴子監修『国際理解に役立つ民族衣装絵事典―装いの文化をたずねてみよう―』(PHP研究所、2006年)です。
最後に、経済学でいう生産と消費という用語を参照すれば、総じて衣服史は文化史の形を取って衣服消費の側面にのみ拘泥し、生産を文化から追放してきたことになります。
しかし、消費面に注目するならば、「和服」や「和装」の衰退を日本衣服史の終点とすべきではなく、ジーンズやTシャツなどの品目も日本衣服史として取り上げられるべきでしょう。
衣服史研究の問題 : 写真利用の弊害
衣服史やファッション史の本で写真を利用することは弊害といえる問題を持っています。
以下では、写真利用の弊害と写真利用の新たな課題の2点として述べています。
写真利用の弊害は≪写真を提示することで何かを説明できたという錯覚≫と≪過去の写真を用いて説明したつもりになっても自分の憧憬を語ってしまう悪癖≫についてです。
最後に、写真利用の新たな課題として結びます。
衣服史研究がこれまで採用してきた方法には文字や写真を読者の眼前に提示する方法でした。
しかし、多くの実証研究には説得性の問題が残っています。
そもそも実証研究とは、その時々に流行する文字や写真などの媒体を無批判に利用するのではなく、実証不可能性を問うことによって成立します。
映像や写真は説明することを非常に難しくしています。
あるいは言葉が映像や写真に追いつかないのかも知れません。
映像と言語とのあやふやな関係についてはこちらをご覧ください。
写真が真実を語るのかについてはこちらをご覧ください。
関連 アントニオーニ監督映画「欲望」1966年:写真は真実を語るのか?
写真利用の弊害 : 深井晃子の場合
1枚の写真に様々な事態や意味をまとめる(カセット化する)点に大きな影響を与えたのは、当然カメラ・写真技術です。
ヨーロッパから輸入されたカメラという媒体物と撮影技術の成果を駆使して、衣服史研究では、漢字やカタカナの利用を最小限に留めつつ着用面へ関心を集中させるという手法として使われ、掲載された写真が全て自家消費であるかのような印象を与えてきました。
そこには、従来の文字中心的な衣服史にみられた衣服形態の無視と服地への注視という視点を継承しながら、説明媒体の比重を文字から写真へ移動させるという伝達方法が見受けられます。写真を駆使し文字を軽視した紹介方法は衣服史研究で当たり前のように行なわれてきました。
たとえば深井〔1998〕はカラー写真を駆使し、一部に衣服の形態や構成を少ししか説明せず、同時代の文学作品などの引用を散りばめるという体裁を採っています(深井晃子監修『カラー版 世界服飾史』美術出版社、1998年)。しかし、おかしな姿勢がいくつも見られます。
まず、書名と大きく異なり内容はヨーロッパに限定としています。換言すれば、同書の世界とはヨーロッパです。さらに、オリエント、ギリシア、ローマから一貫してヨーロッパにおける上流層の服飾のみを取り上げる一面性もあります。
使用される写真群は、古代の壁画・絵画・版画などを写した複製写真と、カメラが利用可能になった時代以降は被写体写真という2種類に大別されます。
本書は、写された物・者たちが同時代の衣服史・服飾史を一貫して表現しているという観点にもとづいています。「この服を着て、このような着方や皺は有り得ない」といった、壁画・絵画と写真との間に発生する衣服の描写可能性の違いは問われません。
深井は上の絵画と写真の2枚を並べて、当時の流行を説明しますが、2点の比較で流行を言えるのでしょうか…。
たとえば上の絵画資料の方では、次のように説明されています。「デコルテは進展して、ローブの大きい襟ぐりに、レースや薄地素材の大きな襟が付けられるようになる」(同書80頁)。しかし、写真資料をこれだけ小さく掲示されたら襟ぐりがレースかどうかも分かりません。
説明は続きます。「襟ぐりは水平なカットから17世紀末にはV字型前あきへと変化し、そのVゾーンはレースやエシェルと呼ばれるリボンをつけた胸当てをつけた」(同)。
1枚の絵画から「襟ぐりは水平なカットから17世紀末にはV字型前あきへと変化」したことは説明できません。写真は静止しているからです。
このような説明では次のような疑問が噴出します。
- 17世紀以降、水平にカットされた襟ぐりを誰も着なくなったのか?
- そもそも16世紀に流行したらしい≪水平カット≫は本当にカットされていたのか? 織物の端を襟ぐりに持ってきていたのではないか?
- 下の写真資料は後半身を写したものだが、襟ぐりのちょうど後側に水平部分が露骨に示されている。前半身の変化だけが流行なのか?
16世紀の項目で深井はいくつかの肖像画を挙げています。
その一部は確かに襟ぐりが水平になっています。
しかし、絵画はその水平線をカットしたものか布の端を充てたものかを語るでしょうか?
このような問題点をふまえて私は『カラー版 世界服飾史』のレビューをアマゾンに書いています。
これは酷い
絵図が多いので、パラパラとめくりながら読むと、歴史叙述になっておらず、時期別特徴がクローズアップされるだけ。世界服飾史と思ったら欧州の上流層中心の史料を取り上げて、それを現地語のカタカタ表記で済ませています。語義解説もほとんどなく、「私達知ってるのよ」で終わる、オチの無さ。
服飾と言いながら、衣服がほとんどで、宝飾品の説明は少ない。壁画史料や絵画資料に対する写真資料との区別化も無く、時代とともに変わっていった資料メディアへの距離感が同じというのは、専門家として致命的ではないでしょうか。学生をだます程度の教科書の域を出ません。『欧州上流階級の残された衣類史』として欲しかった。『世界服飾史』の題名は嘘だったと言わざるを得ません。
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また増補新装版については次のように記しました。
写真利用の弊害 : ペネロピ・フランクスの場合
日本衣服史研究は和服か洋服かの二者択一的な衣服史に集中してきました。
そこには研究者・著者自身の個人的憧憬がたくさん塗りこまれています。そのため、研究者の個人的環境が無意識に反映されています。
衣服を対象とした研究において、政府統計にみる用語以上に具体性を欠いたものが衣服史や文化人類学・民族学において大量生産されてきました。
この事態は学問上の不幸であると同時に、このような先入観を塗り込んで,博物館・美術館,そして大学の講義などで紹介され流布されてきました点で2重の不幸が生じました。
たとえば、最近のファッション史研究で目を覆いたくなるほど安直で、誤認に塗り固められた研究がペネロピ・フランクスから提起されました。
これを紹介しましょう。
次の写真はフランクスが「和服の伝統性」を述べた論文(といえるか?)の中で利用しているものです(ペネロピ・フランクス「着物ファッション」(同、ジャネット・ハンター編『歴史のなかの消費者―日本における消費と暮らし1850-2000―』法政大学出版局、2016年〔原著2012〕年))。
写真とその情報は「近代日本の身装文化」にも掲載されています。
フランクスは、「着物ファッション」と題した論文で「日本の着物の形態に変化がなく、中国の衣服のように従来のゆったりした型から体に沿った仕立てへと変わらなかった」(同書182頁)とみなし、着物のファッションを生地柄に求めました。
しかし「和服の洋服化:1900年から1920年代までの変遷」で述べられるように、日本の着物の形態には変化があり、中国の衣服と同じように従来のゆったりした型から体に沿った仕立てへと変わりました。
フランクスは続いて、1920年代になっても「大多数の女性は、裕福か貧しいかを問わず、日本式のファッション・スタイルを維持」(同書182頁)していたとも述べ、欧州では中世から≪ファッション=衣料品≫となったが、日本の場合は衣服形態に変容が無かった点を対比させました。
フランクスは着物の中でも特に銘仙が1920年代頃に普及したと論じています。
これが実現したのは、フランクスが述べるとおり、旧呉服店系百貨店と銘仙産地の間に取引が成立し、伊勢崎銘仙の製造業者は桐生や足利に委託生産することで分散型生産組織が拡大したためです。
フランクスは日本のファッションを衣服デザインではなく生地デザインを念頭におくのですから、生産体制を論じる場合は生地生産を論じ、着物生産には言及しません。
フランクスにとっては、旧呉服店系百貨店と銘仙産地の間に成立していた取引の間にある着物生産は、どうでも良いということになります。
また、フランクスは着物を普遍形態と見なして、帯の締め方(お太鼓結び)や帯の上昇について考察していません。
彼は上の写真を過去から引き継がれた伝統的な着物と捉えてしまっていますが、お太鼓結びは当時の規格品であり、一人で括り付けることができました。
工業化された帯を量産化されたスリムな銘仙につけることが伝統なのでしょうか。
1枚で全部を語れる写真を選ぶ能力が、研究者に必要です。
小括
写真を資料として使う場合、5W1Hを説明する必要がありますが、それは難しいことです。とくに「How」。
これを説明して初めて、本文と写真が連動して活きた資料として私たちに迫ってくると思うのです。
読者に写真への憧れだけを付与するような使い方は、やや麻薬的な使い方に思えました。
写真資料を用いたファッション史研究の在り方には批判的でなければなりません。
写真利用の新たな課題
壁画・絵画等の複製写真と被写体写真とを比較した場合、資料・史料に即した分析視角が衣服史において重要となります。
それにも関わらず、研究史では壁画・絵画などの複製写真を紹介する場合に壁画や絵画に描くことが可能であっても着装は不可能であるという物理的限界は無視される場合ばかりです。
壁画・絵画で描かれた服装が実際に着用可能であったのかどうか、あるいは、どの部分が実際に近く、どの部分に無理があるかといった視角が衣服史の新たな課題として期待されます。
この点を実践した研究はほとんど存在しません、大丸弘と高橋晴子の諸研究を除けば…。
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