マドレーヌ・ヴィオネは1876年にフランスのオーベルビリエに生まれたファッション・デザイナー。
8歳で義務教育を終え、12歳からクチュール店で見習い奉公。18歳で結婚したが間もなく離婚しイギリスに渡りました。
1900年代~1910年代 : ロンドンとパリで活躍
ロンドンでは紳士服店のアトリエで修行をつみ、チーフとなりました。
5年後の1901年に帰国し、パリのキャロ姉妹のメゾンに入店。
このとき、ジェルベール夫人から創作のコツを学び、1907年にジャック・ドゥーセ(Jacques Doucet)のメゾンでモデリストとなりました。
36歳の1912年、パリのリボリ街に店をもち第1次世界大戦中に閉店し、戦後の1919年に再開。
1920年代 : パリで再活躍
1922年、百貨店ギャルリ・ラファイエットの援助で、モンテーニュ通りの大邸宅を購入して移転。
1940年に店舗を閉じるまで、パリ最大の店舗の一つとして君臨しました。
1920年代・1930年代を通じての活躍はめざましく、ファッション界に影響を与えつづけた。
20世紀を代表するデザイナーといわれるのは服装の近代化に尽くしたからといわれます。
1920年代にヨーロッパで流行したシノワズリやジャポニズムや古代ギリシャに影響をうけ、ドレーピング裁断によって独自のスタイルをつくったそうです。
1930年代以降 : バイアスカットの創始者だったのか
1930年代以降、バイアスカット(バイアス裁ち)をはじめ、脇明きも前明きもない簡単に被って着るドレスを考えました。いわゆる貫頭衣です。
また、ドレスとコートの裏を共にするアンサンブルのアイデアなどを生みました。
これらは今のファッションにも受けつがれているといわれますが、貫頭衣を受け継いだマドレーヌ・ヴィオネは古代人類の貫頭衣を受け継いだわけですから、彼女を根拠なき伝説にしてはダメ。
バイアスカットについて
バイアスカットの真偽
マドレーヌ・ヴィオネの前にバイアスカットをした人間がいない点を証明できません。
バイアスカットは人類の工夫として存在した可能性がとても高く、多くの日本人研究者が世界服飾史・西洋ファッション史の本で確認もせずに繰り返し強調してきた点に大きな疑念があります。
創作にあたっては、女体標準形の半分サイズ(80センチメートル)や1/4大サイズの小さな木製人形に布をかけ、布の経糸と緯糸が交差する仕組みを物理的に活かしました。
いちおう、いろんなデザイナーたちが倍会うカットを真似できなかったといわれますが、誰もやろうとしなかった可能性もあります。マドレーヌ・ヴィオネの斬新な店は裁断に人形を使ったかと思われます。
ガブリエル・シャネルならダメなの?
20世紀初頭、前世紀のコルセットが女性から反発されるようになり、新たな衣服が上流層で要求されていました。
ヴィオネは布を斜めに使うことによって布の伸縮性を高めました。
ヴィオネに遅れること数年、ガブリエル・シャネルがジャージーで服を作ることを検討しました。つまりストレッチ素材で気安い服を作ろうとしました。
シャネルが好んで用いた生地はクレープ、クレープデシン、サテンなど。
シャネルの有名な作品には多様なドレープ、ホールター・トップ、前や後の思い切ったデコルテ、ハンカチーフ・カットのスカート、アール・デコ調の刺繍などがありました。
1940年代の閉店後
第2次世界大戦前にマドレーヌ・ヴィオネは閉店しました。
このあと、パリ16区のアパートでアールデコ調の調度品に囲まれ、バレンシアガのドレスを着て余生を送ったそうです。
彼女のモデリング法は、弟子のマルセル・ショモン、キャルパンチエ、ジャック・グリフらが継承。
ボディコンシャスを宣告したものとしてアライアら数多くのデザイナーにも大きな影響を与えました。
1975年、パリで死去。
Vionnet – ヴィオネ・パリスの公式サイト。コレクション情報、店舗略歴、広告集、映像広告集、イーストア。
コメント