グレタ・ガルボは、スウェーデンのストックホルム生まれの映画女優です。
1905年~1990年。英語表記は「Greta Garbo」。
ハリウッドでMGM社の代表的な女優となり、ギルバート・エイドリアンが多くの衣装デザインを担当しました。
私には、後のカトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・リン、岩下志麻に繋がります。かつて、ロラン・バルトはグレタ・ガルボの顔を観念と称しました。
初期の職歴
ガルボの母アンナは裁縫の内職をしていました。
グレタ・ガルボは10代半ばに理髪店の見習いとなり、後に百貨店に勤務し、帽子販売店に配属されました。
帽子店のカタログ作成のためにモデルになったところ、色んな帽子が似合うと評価され、百貨店の女性用装身具の専属モデルへ転身し、短い宣伝映像にも出演しました。
この宣伝映画を見たスウェーデンのペチュレル監督がガルボを「放浪者ペッテル」Luffar-Petter, 1922 に起用しました。
ストックホルムでの技術習得
これを機にガルボはスウェーデンのストックホルムにある王立劇場(The Royal Dramatic Theatre)の付属学校(Dramatens elevskola)に通い演技を本格的に学んでいきます。そして小さな役でも舞台に立つようになりました。
スウェーデン映画の巨匠マウリツ・スティルレル監督が「イエスタ・ベルリングの伝説」Gosta Berlings saga を映画化する際に、第2主役を演じる若手女優を同校の生徒から探した結果、ガルボが選ばれました。
スティルレルは手取り足取りガルボに演技を教え込みました。この映画は4時間の大作となり、スウェーデン以外の国でも話題に。二人はドイツの映画会社と契約を結ぼうとしますが、その会社が破産したために話は流れました。しかし、ガルボに声がかかり、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の「喜びなき街」(Die freudlose Gasse)で大役を得ました。
ガルボは「喜びなき街」に出演した後、アメリカへ渡りました。
パープスト監督はガルボを起用できなくなり、代わりにアメリカの女優をドイツへ呼んで契約しました。俳優たちのアメリカ移住が多い中、当時としては珍しいケースです。その女優は米国カンザス州出身のルイス・ブルックス(Louise Brooks)でした。
アメリカの映画評論家ジェイムズ・モナコは次のように述べています。
サイレント期に最高の成功を遂げたアメリカ映画のスターは、多くがヨーロッパからの移住者であって、なかでもガルボとルドルフ・ヴァレンティノは卓越した存在であった。ジェイムズ・モナコ『映画の教科書―どのように映画を読むか―』岩本憲児・フィルムアート社、1983年、205頁
ハリウッドでのデヴュー
1920年代の女性美は flat boy-like つまり男性風平坦にあり、またギャルソンヌ・ルックが流行した時代でした。
1910年代にブラジャーこそ開発されたものの、女性美の基準はまだ乳房や乳腺ではなく、脚にありました。(「ヨーロッパの女性美基準の変化 : 20世紀初頭まで」の「女性美基準の変化」参照)
1925年、MGM社の責任者ルイス・メイヤーがスティレルと契約する際、スティレルはガルボとも一緒に契約するよう要求しました。
メイヤーはしぶしぶガルボと契約を交わします。彼はガルボのように脚の太い女性はアメリカでは人気が出ないと考えていましたが、契約を交わした以上、美容術の限りを尽くしてガルボを磨き上げたといわれます。
なお、メイヤーが仕方なしにガルボと契約したという説には異論があり、海野弘によると、MGMはむしろガルボを欲しくて仕方なしにスティレルと契約を交わしたと見ています(海野弘『モダンガールの肖像―1920年代を彩った女たち―』文化出版局、1985年 →amazonへ)。
MGM社と契約したガルボは渡米第1作としてモンタ・ベル監督「イバニエスの潮流」Torrent に出演しました。この映画の未編集段階の映像(ラッシュといいます)を見たMGM社のスタッフたちはガルボが名女優になると確信し、大々的に宣伝を行ないました。
この映画は1926年2月に公開され、グレタ・ガルボはハリウッドでの映画女優のデビューを果たしました。
スティレル監督との作品以外は嫌だと言ったガルボをスティレルは説得し、ベル監督「イバニエスの潮流」がハリウッド・デビュー作となりました。
2作目「明眸罪あり」と3作目「肉体と悪魔」
2作目となる「明眸罪あり」The Temptress はスティルレル監督で撮影され始めましたが、MGM社の撮影所と折が合わず、撮影開始の10日後にフレッド・ニブロ監督と交代しました。
その後、スティルレルはパラマウント社で数作の映画を撮りましたが評判を得られず、1927年にスウェーデンへ帰国し、翌年死去しました。
この映画の原題は The Temptress で、誘惑者の女性名詞を意味します。新しい女優ガルボをMGM社が強く宣伝した意図がうかがえます。
第3作目は、その1927年1月に公開されたクレランス・ブラウン監督 Clarence Brown の「肉体と悪魔」(Flesh and the Devil)です。これはドイツの作家ヘルマン・ズーダーマンの小説を映画化したものです。
この映画がガルボを大スターの地位に決定づけました。相手役はMGM社最高の人気俳優であったジョン・ギルバートです。
この作品以降、クレランス・ブラウン監督、ジョン・ギルバート、グレタ・ガルボの組み合わせがが彼女の出演映画の王道となっていきました。
この組み合わせの第2段が1928年の『恋多き女』で、ガルボ自身の第7作目の映画です。原作はイギリスの作家マイクル・アーレンの『グリーン・ハット』。
サイレント映画からトーキー映画へ
その頃、ハリウッドの映画界は無声映画(サイレント)から発声映画(トーキー映画)に移りました。
この移行は映画俳優や映画会社にとって強烈な試練を与えました。有声映画では当然ながら俳優の声にも注目が集まるからです。
ガルボの英語は上手でなく、トーキーへの転換も遅い方だったので、彼女のスウェーデン訛の英語が観客たちに嫌われるのではないかと心配されました。
しかし、MGM社は “Garbo talks!” という宣伝文句で大々的に4作目『アンナ・クリスティ』Anna Christie を宣伝をし、ガルボのハスキーな声を観客に聴かせ、逆に人気が高まりました。
その後、ガルボは『スザン・レノックス』 Susan Lenox (Her Fall and Rise) 『マタ・ハリ』 Mata Hari 『お気に召すまま』 As You Desire Me 『クリスチナ女王』 Queen Christina 『椿姫』 Camille 『征服』 Conquest 『ニノチカ』 Ninotchka など約20本の映画に出演しました。
ハリウッド期ガルボ映画の衣装評価
ルーベン・マムーリアン監督の『クリスティナ女王』(1934年)は W・S・ヴァン・ダイク監督『マリー・アントアネットの生涯』(1938年)とともに1930年代に注目された時代映画の一つで、いずれもギルバート・エイドリアンが衣装を担当しました。
前者はガルボの存在を際立たせたましたが、既に20世紀に過去を再現することは難しく、17世紀中期のスウェーデンに生命を吹き込むことは出来ていません。
賛否両論に分かれますが、衣装面で高く評価されるのは『マタ・ハリ』『クリスティナ女王』『椿姫』です。
『マタ・ハリ』はビザンチン・ムード溢れる豪華なコスチュームで、ビーズとバグルで作られたキャップ、念入りに刺繍されたジャケット、それらに身体にフィットした光る素材のパンツが組み合わされました。大柄なガルボをエイドリアンが上手くサポートした印象を受けます。
『クリスチナ女王』では、普段着では女性らしさが乏しくなるガルボをそのまま映し出した作品です。
実在のスウェーデン女王クリスティナ自身が男性衣装を好んで身に着けていたので、この映画でガルボはほとんど男装をしています。
『椿姫』でエイドリアンはガルボに純情と愛らしさを演出しました。
他の出演者に比して、ガルボの衣装は装飾も含めておとなしい抑えたものにし、かえってガルボのもつ品格を押しだしました。
とくに、パーティー場面で銀の星をちりばめた純白の絹製ドレスは印象的です。
ガルボの伝記を書いたアレキサンダー・ウォーカーは《恋する知性的女》を演じられる珍しい女優に、グリア・ガースン、キャサリン・ヘプバーン、シリア・ジョンソン Celia Johnson を挙げていますが、この「椿姫」をもってガルボもまた恋する知性的女性を演じることを証明したと明記しました(アレキサンダー・ウォーカー『ガルボ』海野弘訳、リブロポート、156頁)。
ガルボ出演の映画のうち、興行面でヒットしたのが『グランド・ホテル』 Grand Hotel (1932) です。
この映画はベルリンを舞台にしたヴィッキ・バウム Vicki Baum の大衆小説を原作にしたものです。
グレタ・ガルボをはじめ、ジョン・バリモア 、ジョーン・クロフォード、ウォーレス・ビアリー、ライオネル・バリモアら大スターが出演し、アカデミー作品賞を受賞しました。
この映画でガルボは老化したバレリーナを演じ「私は一人になりたい」という台詞を述べますが、これはガルボの映画界での気持ち、あるいは映画界からの引退を示唆するものと深読みすることもできます。
ガルボの引退と孤独の真相
グレタ・ガルボは36歳の1941年、『奥様は顔が二つ』という映画を最後に引退します。
グレタ・ガルボが引退した時、MGM社で彼女の全衣装を担当してきたギルバート・エイドリアンは「グラマーは終わった」と語って、自分も MGM を去りました。
女優復帰の噂は何度もありましたが、遂に映画界へ戻ってくることはありませんでした。
また、女優生活を続けている間も引退後も恋の噂が何度か囁かれましたが、実際はほとんどの人と関わりを持たず、静かに暮らし続けました。
他方、最近スウェーデンで公開されたガルボの私信類によると、ストックホルム王立劇場付属学校時代に惚れた女優ミミ・ポーラーク Mimi Pollak を愛し続けた結果だったとも指摘されます(外部リンク:Lonely Garbo’s love secret is exposed | World news | The Guardian)。
次の写真は「ライフ」誌1955年1月10日号の表紙です。
1928年にエドワード・スタイケンが撮影したグレタ・ガルボの肖像写真です。
もともは「ヴァニティ・フェア」誌 Vanity Fair で1929年に公開された写真です。
転載元の「タイムズ」誌でベン・コスグローブが語るように、ガルボの視線は直感的であると同時に読解不能でもあるため、彼女が映画の観客たちに喧嘩を売っているのか誘惑しているのかが分かりません(Greta Garbo: Portrait of a Legend Who Turned Her Back on Fame | Time)。
相手の目を見つめる人間の視線には2種類あって、1つ目のタイプは心を自分の下に置く人たち、2つ目のタイプは心を相手の目の向こう側にまで飛ばす人たち。ガルボの視線はもちろん後者です。
ガルボの視線が私たちに刺さるのではなく、ガルボの視線に私たちが刺さりに行くという喩が相応しいように私は思います。
とにかく、このような視線にも関わり、引退後のガルボは孤独で寂しい女性、あるいは謎の女性として認識されてきました。
「私は一人になりたい」というガルボの言葉が独り歩きし、他方、本当の映画マニアは永遠のスクリーン・アイコンとしてガルボを語る時、キャサリン・ヘプバーン Katharine Hepburn やベティ・デイヴィス Bette Davis と同格の人物として見なします(Greta Garbo: Portrait of a Legend Who Turned Her Back on Fame | Time)。
グレタ・ガルボ : ファッションと印象
グレタ・ガルボの数少ない友人の一人がギルバート・エイドリアンでした。
また、セシル・ビートンも彼女の友人でしたが、グレタ・ガルボの衣装を担当したことが無いことを唯一後悔していると回想しました。
ギルバート・エイドリアンのグレタ・ガルボに対する衣装協力は際立った対照性を持っています。
エイドリアンは1928年にMGM社へ入社。
ガルボ以外にもジョーン・クロフォードやジーン・ハーローたち1930年代ハリウッドを代表する女優たちの衣装を多数デザインしました。
ガルボの衣装は在り来たりでは無く、多くの観客に際立った影響を与えました。たとえば、縁辺の垂れた帽子を被ってトレンチコートの衿を立てて雨中を歩く姿です。
人嫌いで有名なガルボには強烈な孤独と個性を沈殿させるような衣装が似合います。
出演映画と衣装デザイナー
グレタ・ガルボが出演した映画の衣装デザイナーは誰であったのかを以下にまとめます。
公開年 | 題名 | 邦題 | デザイナー |
---|---|---|---|
1920 | Mr. and Mrs. Stockholm Go Shopping | ||
1921 | The Gay Cavalier (TV) | ||
1921 | Our Daily Bread | ||
1922 | Peter the Tramp (Luffar-Petter) | 放浪者ペッテル | |
1924 | The Saga of Gosta Berling (Gösta Berlings saga) | イエスタ・ベルリングの伝説 | Ingrid Günther |
1925 | The Joyless Street | 喜びなき街 | |
1926 | Torrent | イバニエスの激流 | アンドレ・アニ : André-Ani/マックス・リー : Max Rée/Maude Marsh/Kathleen Kay |
1926 | The Temptress | 明眸罪あり | アンドレ・アニ : André-Ani、マックス・リー : Max Rée |
1926 | Flesh and the Devil | 肉体と悪魔 | アンドレ・アニ : André-Ani |
1927 | Love | アンナ・カレニナ | Gilbert Clark |
1928 | The Divine Woman | ||
1928 | The Mysterious Lady | 女の秘密 | |
1928 | A Woman of Affairs | 恋多き女 | ギルバート・エイドリアン : Gilbert Adrian |
1929 | Wild Orchids | 野生の蘭 | |
1929 | A Man’s Man | ||
1929 | The Single Standard | 船出の朝 | |
1929 | The Kiss | 接吻 | |
1930 | Anna Christie | アンナ・クリスティ | |
1930 | Romance | ロマンス | |
1930 | Anna Christie (in Germany) | アンナ・クリスティ | |
1931 | Inspiration | インスピレーション | |
1931 | Susan Lenox (Her Fall and Rise) | スザン・レノックス | |
1931 | Mata Hari | マタ・ハリ | |
1932 | Grand Hotel | グランド・ホテル | |
1932 | As You Desire Me | お気に召す儘 | |
1933 | Queen Christina | クリスチナ女王 | |
1934 | The Painted Veil | 彩られし女性 | |
1935 | Anna Karenina | アンナ・カレニナ | |
1936 | Camille | 椿姫 | |
1937 | Conquest | 征服 | |
1939 | Ninotchka | ニノチカ | |
1941 | Two-Faced Woman | 奥様は顔が二つ |
関連リンク
- Startsida – Dramaten : グレタ・ガルボの学んだ王立ドラマ劇場(The Royal Dramatic Theatre)の公式サイト。ガルボ以外にも、映画監督のイングマール・ベルイマン Ingmar Bergman や映画女優のイングリッド・バーグマン Ingrid Bergman らを輩出しました。
- Greta Garbo | Biography & Photos | Britannica.com : Encyclopædia Britannica, Inc. によるグレタ・ガルボの伝記ページ。外在的な観点から簡潔にまとめている。
- Lonely Garbo’s love secret is exposed | World news | The Guardian : 1990年のグレタ・ガルボ没後に新たに知られたエピソードや私信をもとに、彼女の印象を再検討したページ。神話化された面が多いガルボの人間らしさがにじみ出ています。
- GarboForever.com – The Legend lives on : Torsten, John, Anna Maria, Nici によって運営されるグレタ・ガルボ称賛サイト。フォーラム、アーカイブ、ニュース、伝記、出演記録、トリヴィア、ギャラリー、メディア、リンク、ゲストブックから成る。伝記 Biography と出演記録 Filmography がかなり詳しい。
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