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ギルバート・エイドリアン:MGM社でガルボらの衣装をデザイン

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ギルバート・エイドリアン

ギルバート・エイドリアン(Gilbert Adrian)は米国コネチカット州ノーガタックに生まれたファッション・デザイナー(衣服設計師)です(1903-1959)。
よく映画のクレジットでは単にエイドリアン Adrian と記されます。映画衣装分野の開拓者であると同時に、主にMGM社でグレタ・ガルボ(Greta Garbo)らの衣装を作りました。

ギルバート・エイドリアン Gilbert Adrian

ギルバート・エイドリアン Gilbert Adrian via Gilbert Adrian Greenberg – Fashion Designer | Designers | The FMD

学生時代:ギルバート・エイドリアンの命名や仕事

ギルバート・エイドリアンは、New York School of Fine and Applied Art (現パーソンズ美術大学/Parsons School of Design) に学びました。同級生のフローレンス・カニングハムはエイドリアンに従事し the Gloucester Playhouse の衣装をデザインしました。学校の最初の夏期休暇中のことです。カニングハムはエイドリアンの演劇衣装デザイナーとしての可能性を認め、彼は父親の名を冠して Gilbert Adrian と呼ぶよう勧めました。 次学期、エイドリアンはヴォージュ広場にある同校パリ・キャンパスに移籍しました。
パリでの滞在はわずか4ヶ月でしたが、当地のアートシーンは彼に大きな影響を与えました。中でも、エルテ Erté とレオン・バクスト Leon Bakst のバレエ・リュス the Ballet Russe のデザインから最大の影響を受けました。エイドリアンはパリでグラン・プリ・バル(Grand Prix Ball)の衣装をデザインしました。

エルテ「モンテ・カルロ」署名入り、セリグラフ

エルテ「モンテ・カルロ」署名入り、セリグラフ / ERTÉ, “Monte Carlo”, hand-signed serigraph via Discover the art of Erte, father of Art Deco, at Martin Lawrence Galleries

ダンス衣装分野への関与

パリ・オペラ・ハウスで毎年開催される仮面舞踏会のために、エイドリアンは現代芸術のシェヘラザードだと自分に言い聞かせました。彼は同級生と若い女性にデザインし、夜の部のグランプリを受賞しました。 2人が踊っている間、アーヴィング・バーリン Irving Berlin が割り込み、女性の衣装を賞賛しました。バーリンの賞賛を若い女性がエイドリアンに伝えたとき、彼は彼女とのガボット(フランスのフォークダンス)を離れて作曲家を探しました。

米国帰国直後の仕事

バーリンはニューヨークで開催されるミュージック・ボックス・レヴュー Music Box Revue(1923年)用の衣装をデザインさせるためにエイドリアンを雇いました。エイドリアンのグラン・プリ・バル時の衣装類から影響を受けたためです。


バーリンの正規デザイナーであるチャールズ・レミア(Charles LeMaire)はエイドリアンの衣装が舞台では実用的では無いと判断し、レヴューに数点の衣装を採用しただけでした。エイドリアンはこの些細な事を決して忘れませんでした。
数年後にレミアがハリウッドへ移り、20世紀フォックス社に入社した時、エイドリアンは既にMGM社で働いていて、ハリウッド社交界でレミアに対し冷遇しました。レミアがエイドリアンのデザインをあまり使わなかったにも関わらず、ミュージック・ボックス・レヴューはエイドリアンに対して2つのプロジェクトを与えました。
それはジョン・マレー・アンダーソン演出の Greenwich Village Follies(1925年)と「ジョージ・ホワイトのスキャンダル」George White’s Scandals(1925年)です。後者でエイドリアンはスケッチ用の衣装設計を行ないました(オリー・ケリーが衣装・風景を担当)。

ヴァレンティノ夫妻との仕事

1924年、衣装部屋の応接テーブルに残したエイドリアンのスケッチを見た映画衣装デザイナーのナターシャ・ランボヴァ Natacha Rambova は彼に目が惹かれ、夫のルドルフ・ヴァレンティノと彼女が製作を進めていた映画 The Hooded Falcon (未完)に向けて、エイドリアンにカリフォルニアでの製作に参加するよう呼びかけました。夫妻はエイドリアンに衣装デザインを依頼したのです。この映画はランボヴァが脚本を書いてプロデュースもしていた作品です。エイドリアンは20世紀フォックス社貸切の旅客列車にヴァレンティノ夫婦と側近たちと一緒に西へ移動しました。
エイドリアンはハイランド・アベニューにアパートを借りて、The Hooded Falcon の衣装制作に取り掛かりました。映画の宣伝はランボヴァのエイドリアン発見を「映画界の若いポワレ」や「幼い衣装デザイナー」として紹介しました。当時、エイドリアンはわずか21歳だったからです。The Hooded Falcon は予算超過のため製作が難航しました。リッツ・カールトン・ピクチャーズ社はこの映画の問題が解決しない間、ヴァレンティノがCobra(1925年)を作ることを主張しました。Cobra はエイドリアンのクレジットが入った最初の映画となりました。リッツ・カールトンが最終的に The Hooded Falcon の製作を打ち切った時、ヴァレンティノとランボヴァは離婚しました。なお、エイドリアンはリッツ・カールトン社のヴァレンティノ映画のもう1つ、The Eagle の衣装もデザインしています。

ヴィルマ・バンキーとルドルフ・ヴァレンティノ「The Eagle」。

ヴィルマ・バンキーとルドルフ・ヴァレンティノ「The Eagle」。Vilma Banky and Rudolph Valentino in “The Eagle” 1925 via Gowns by Adrian! | Pretty Clever Films


エイドリアンは離婚後のヴァレンティノとランボヴァに衣装をデザインしました。ランボヴァには What Price Beauty(1925年)、ヴァレンティノには The Eagle(1925年)の衣装をデザインしました。 同年、興行師シッド・グラウマン Sid Grauman はチャールズ・チャップリン Charlie Chaplin 主演の「黄金狂時代」The Gold Rush(1925年)のエジプト劇場での序幕で彼のデザインを展示し、エイドリアンの存在を観衆に広めました。

セシル・B・デミルとの仕事

映画監督セシル・ブラウント・デミル(Cecil Blount DeMille)のデザイナーであったミッチェル・ライセン Mitchell Leisen は、Volga Boatman(1926年)の衣装デザインと舞台デザインの両方を行う時間を避けなかったため、以前にライセンがニューヨークで会ったエイドリアンを雇うことをデミルは許可しました。 エイドリアンは依然として縫製について十分知らなかったため、ライセンは縫付を監督しました。エイドリアンのスタイルはデミルの要求を満たし、観客たちが俳優たちの光景に息を弾ませるとデミルは確信しました。その後、ギルバート・エイドリアンは、1926年から1928年まで Demille Studios と契約をしました。その間、リートライス・ジョイ Leatrice Joy、フィリス・ヘイヴァー Phyllis Haver らをデザインし、デミルのショー The King of Kings(1927年)に取り組みました。エイドリアンはデミルに付いて、1928年にMGM社へ移籍しました。

衣装をデッサンしているミッチェル・ライセン。

衣装をデッサンしているミッチェル・ライセン。1920年代後半にエイドリアンに縫製の訓練を行なった。 via IMDb

MGM社での活躍

1928年、エイドリアンはエム・ジー・エム(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、MGM:Metro Golodwyn Mayer)へ移籍しました。ここで、グレタ・ガルボ、ジョーン・クロフォード Joan Crawford、ジーン・ハーロー Jean Harlow たち1930年代ハリウッドの代表的な俳優たちの衣装を多く制作しました。また、1930年代頃から映画衣装が世間へ影響を与え始めるようになり、ギルバート・エイドリアンはその一翼を担いました。エイドリアンはハリウッド黄金時代を支えたデザイナーの一人で、他社に在籍したトラヴィス・バントン Travis Banton やウォルター・プランケット Walter Plunkett らと頂点を極めました。

ギルバート・エイドリアンは1928年にMGM社に1942年まで在籍しました。同社で彼の才能は本当に開花し、数少ないトップ・デザイナーとして、ハリウッド映画黄金時代の衣装を制作し、エレガントなMGM社の俳優たちに衣装を供給しました。グレタ・ガルボをはじめ、ジョーン・クロフォード、ノーマ・シアラー Norma Shearer たちです。
服飾産業界は常にジョーン・クロフォードの衣服に関心をもち、撮影所の巨大な印刷機を使いまくって素早くその衣服類をコピーし、映画の公開に合わせて服の小売店へ衣服類を届けたものです。MGM の契約女優たちはとても幸運に、出版業界と協力し合って最大限に広告を打ち出していきました。有名な最良の例は、ギルバート・エイドリアンがデザインしたレッティ・リントン Letty Lynton というドレスをジョーン・クロフォードが着用し、同名の映画 Letty Lynton (令嬢殺人事件) として上映されたことです。ニューヨークの百貨店「メーシー」Macys はこのドレスの模倣品(コピー)を50万着以上売りさばいたと公言しています。

ジョーン・クロフォード用にデザインされた衣装はギルバート・エイドリアンを有名にさせた。その衣装の名は「Letty Lynton」であった。

ジョーン・クロフォード用にデザインされた衣装はギルバート・エイドリアンを有名にさせた。その衣装の名は「Letty Lynton」であった。 “The costume designed for Joan Crawford that made Adrian famous was the “Letty Lynton” dress, named for the 1932 film of the same title”. via Adrian Archives – Silver Screen Modes by Christian Esquevin


また、ギルバート・エイドリアンは1938年に公開された「マリー・アントアネットの生涯」(W・S・ヴァン・ダイク監督、Marie Antoinette)で、ノーマ・シアラー演じるマリー・アントワネットの衣装を担当し、「ロード・アンド・テーラー・アメリカ賞」を受賞しました。

ノーマ・シアラー主演「マリー・アントアネットの生涯」

この映画はエイドリアンの手がけた作品の中で最も壮大な時代衣装と言われていて、とても大陸的なものでした。エイドリアンの最も壮大な時代の作品、マリー・アントワネット(1938年)は、大陸で顕著でした。 この作品では約2,500着もの衣装が必要とされ、50人の裁縫師が手作業で刺繍や装飾品の縫付をしました。エイドリアンはフランスやオーストリアへ赴いて時代を想像し、病気に運命づけられた女王の肖像画から装飾品をスケッチしました。
18世紀フランスのコートの様式はエイドリアンのデザインに影響を与えましたが、彼の衣装は歴史的に完全な本物にはなりませんでした。特に、実際にマリー・アントワネットがコートで示した以上に、エイドリアンはシアラーの肩と上腕を露出させました。 意図的にシアラーの背丈以上に広げられたガウンのいくつかは、スタジオの機材店からの協力を必要としました。
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グレタ・ガルボを担当した映画作品

グレタ・ガルボに対しては発明の責任を負わねばならない」とエイドリアンは語ったことがあります。ガルボの感性をエイドリアンは熟知していました。普通の女性が好むものをガルボは好まない、純粋に創造的なものにしか興味を示さず活発な好奇心に満たされている、等々。衣服へのガルボの反応や、人気が大きくなる中での彼女の個性は、アメリカの女性の想像力を掻き立てて火を付けるとエイドリアンは思っていましたし、そして、ガルボのスタイルが与える影響は他の女優よりもはるかに強く広いものだと確信していました。

マタ・ハリ、グレタ・ガルボ出演、ジョージ・フィッツモーリス監督、1931年。Greta Garbo, in Mata Hari, directed by George Fitzmaurice, 1931.

マタ・ハリ、グレタ・ガルボ出演、ジョージ・フィッツモーリス監督、1931年。Greta Garbo, in Mata Hari, directed by George Fitzmaurice, 1931. via Mata Hari: Muses, It Women | The Red List


ギルバート・エイドリアンは、グレタ・ガルボの引退までの10年余りの間、全ての衣装を担当しました。「接吻」The Kiss(1929年)、「恋多き女」A Woman of Affairs(1929年)以降、「スザン・レノックス」fall and rise1931年)、「マタ・ハリ」Mata Hari(1931年)、「グランド・ホテル」Grand Hotel(1932年)、「クリスチナ女王」Queen Christina1933年)、「彩られし女性」The Painted Veil(1934年)、「椿姫」Camille1936年)、「ニノチカ」Ninotchka1939年等々です。
衣装スケッチを話しあうグレタ・ガルボとエイドリアン(1929年)。ガルボは「接吻」(1929年)からエイドリアンの衣装を着るようになりました。

衣装スケッチを話しあうグレタ・ガルボとエイドリアン(1929年)。ガルボは「接吻」(1929年)からエイドリアンの衣装を着るようになりました。Greta Garbo and Adrian going over costume sketches, 1929. Garbo is wearing one of his costumes from “The Kiss” (1929) via Gowns by Adrian! | Pretty Clever Films

グレタ・ガルボの衣装に対するエイドリアンの工夫

元々、グレタ・ガルボは体格が良くて肩幅も広く、男まさりの骨格女でした(中国ではスペアリブ女というそうです^^;)。そのため、ギルバート・エイドリアンは、どのようにしてグレタ・ガルボを女性らしいふくよかさと艶っぽさを加えるかに苦心しました。
「恋多き女」で、エイドリアンは、ガルボの悪い特徴を強調することで、それを隠すという伝統を作り上げました。 多くのデザイナーはスターの欠点を最小限に抑えようとするのに対し、エイドリアンのデザインは代償的でした。ガルボの肩幅は広いので、エイドリアンは彼女の服の肩に幅を持たせて、肩幅を目立たなくなるようにしました。彼はガルボの長い腕を広い袖で覆ったため、観衆は腕ではなく袖に目が行きました。肩幅への工夫はジョーン・クロフォードにも用いました。
「マタ・ハリ」では、グレタ・ガルボの衣装が上手く工夫して配置されていることがわかります。冒頭のダンス場面で、グレタ・ガルボはトランスペアレントのガウンを着ています。それはゆったりしていて、裾を長く曳いています。たまに露出される脚は実際以上に長く見え、ギルバート・エイドリアンは主に太腿を強調することで肉感を出させました。

ジョージ・フィッツモーリス監督『マタ・ハリ』(アメリカ、1931年) 衣装:ギルバート・エイドリアン, 主演:グレタ・ガルボ

ジョージ・フィッツモーリス監督『マタ・ハリ』(アメリカ、1931年) 衣装:ギルバート・エイドリアン, 主演:グレタ・ガルボ


その後の場面では、下半身にゆとりを持たせ、上半身はボディ・コンシャスに仕立てたロング・ドレスをいくつか着ています。それらのドレスは胸元が大きく開いているので、露出した片方の肩に目が行ってしまいます。

ギルバート・エイドリアンはグレタ・ガルボの広い肩と高い鼻を同時に目立たせることで、かなり際立った描き方をさせた訳です。また、顔全体に注目させる時は、襟を立てた巨大なコートを着せました。
次の写真はかなりタイトなスーツです。肩から背中にかけて切り込みが強く、後からみれば露出が高いのですが、この映画の中では比較的露出度の低い衣装です。ワンピースかツーピースかも分かりにくいのですが、二の腕辺りには大きくゆとりを持たせていて、上半身と下半身のバランスを上手に取ろうとしたエイドリアンの工夫の一つだと感じます。下半身部分の素材がレザー(本革)なのかどうかも判断が付きかねますが、膝下には横にストライプを入れています。この効果について、縦縞だったら後方のスカート状の布と脚が反発しあうからかと想像します。

ジョージ・フィッツモーリス監督『マタ・ハリ』ギルバート・エイドリアン衣装、グレタ・ガルボ主演(アメリカ、1932年)

ジョージ・フィッツモーリス監督『マタ・ハリ』ギルバート・エイドリアン衣装、グレタ・ガルボ主演(アメリカ、1932年) via Mata Hari


エイドリアンの衣装は、ガルボが実生活で着ていたシンプルで仕立てられた服とは全く似ていません。 「マタ・ハリ」で見せた彼女のビーズ付ドレスは、数百のクリスタル・ビーズを縫いつけるために15人の裁縫師を雇って6週間も働いてもらいました。ビーズ付ドレス1着の総費用は3,000ドルもかかりました。
時間の経過とともに、ガルボは脚光を浴びることに嫌悪感を示すようになり、公衆は彼女を隠遁者だと理解していきました。しかし、アドリアンはそうではないと思っていました。二人には信頼関係があったからです。エイドリアンは19本の映画でガルボの衣装をデザインしました。「クリスチナ女王」「彩られし女性」に代表される異国風の衣装もエイドリアンのデザインです。「ニノチカ」でエイドリアンがデザインした奇妙な帽子は、ガルボ自身がスケッチしたもので、彼女の映画類で被られていたエキセントリックな帽子の先例をイメージしていました。

エルンスト・ルビッチ 監督、グレタ・ガルボ 主演、ギルバート・エイドリアン 衣装『ニノチカ』1939年公開。

ギルバート・エイドリアンが担当したグレタ・ガルボの衣装では、特に「マタ・ハリ」「クリスチナ女王」「椿姫」が映えていると言われます。
グレタ・ガルボの出演映画は、DVDで数種類ずつ発売されており、最近では入手しやすくなっています。グレタ・ガルボの出演作のDVD版をamazonの「レビューの評価順」に並べたものから、お手頃そうなものを選んで是非ご覧ください(中には、ファーストトレーディング等、一部の販売元のDVDはパソコンでの再生ができず、DVD専用プレイヤーを必要とするものもあるのでのでご注意)。

男装のクリスチナ女王。グレタ・ガルボ出演、ルーベン・マムーリアン監督、ギルバート・エイドリアン衣装

男装のクリスチナ女王。グレタ・ガルボ出演、ルーベン・マムーリアン監督、ギルバート・エイドリアン衣装 via Queen Christina – Greta Garbo – the Ultimate Star


ちなみに、ギルバート・エイドリアンはグレタ・ガルボの数少ない友人でした。同じく友人であったセシル・ビートンは映画衣装デザイナーの人生を振り返り、唯一後悔しているのがグレタ・ガルボの衣装を担当したことが無かったことだと回想しています。それを考えれば、ギルバート・エイドリアンのグレタ・ガルボに対する衣装協力は際立った対照性を持っています。

最後に担当した映画衣装と引退後の生活

グレタ・ガルボが引退した時、ギルバート・エイドリアンは「グラマーは終わった」と語って、自分も MGM を去りました。そして、自身の店舗をビバリー・ヒルズのウィルシェア・ブールバードに開店しました。

スーツ ギルバート・エイドリアン 1948年、ウール・シルク製。

スーツ ギルバート・エイドリアン 1948年、ウール・シルク製。Suit, Gilbert Adrian, 1948, wool & silk. 彼の縞柄(ストライプ)の技術は定評が高く、縞模様の織物から縞模様のパーツにいたるまで観客の目を惹きました。グレタ・ガルボ出演の映画『船出の朝』 The Single Standard, 1929 (ジョン・S・ロバートソン監督)には特にそれが上手に映されています。ガルボはストライプのアンサンブルを着て、縞模様のドアを通り抜けて寝室に入ります。さらに彼女は寝室を横切り、雨が降り注いで波打った縞模様の窓に立ちます。 via Gilbert Adrian | Suit | American | The Met


自分の管轄する小売事業を始めた他のファッション・デザイナーたちと同様に彼もまた映画界へ衣服を供給し続け、1本の映画のために、1952年に MGM へ戻ってきました。この映画は、マーヴィン・ルロイとヴィンセント・ミネリの両監督のもと、1952年に公開されたミュージカル・コメディ(恋愛映画)で、Lovely to Look At (映画 Roberta のリメイク版) といいます。ギルバート・エイドリアンはこの映画の主演俳優たちに衣装をデザインし、ファッション・ショーも開催しました。これが彼の最後の映画衣装となりました。
同1952年、エイドリアンは自分の店で心臓発作に襲われました。しばらく療養してから閉店し、彼は妻のジャネット・ゲイナー Janet Gaynor と一緒にブラジルへ行ってプランテーションを営みました。そこは、彼らと仲の良い女優メアリー・マーティン Mary Martin と映画プロデューサーのリチャード・ハルイデイが経営する牧場に近かったのでした。
なお、妻のゲイナーとエイドリアンは1939年に結婚しました。彼女の出演した「脚長おじさん」Daddy Long Legs(1931年)、Three Loves Has Nancy(1938年)の衣装をデザインしていました。

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いろんなファッション歴史の本を読んで何も学べなかった残念なファッション歴史家。パンチのあるファッションの世界史をまとめようと思いながら早20年。2018年問題で仕事が激減したいま、どなたでもモチベーションや頑張るきっかけをください。

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