エロイーズ・ジェンセン
エロイーズ・ジェンセン Elois Jenssen は米国カリフォルニア州パロアルトに生まれたファッション・デザイナーです。
南カリフォルニアのウェストレイク女学校に通学しました。13歳でパリのパースン・デザイン・スクールに入学し、第2次世界大戦でコースを中断するまでファッション・デザインを学びました。 偉大なクチュールの家へ訪問することがカリキュラムの一部となっていたため、パリで過ごした時間は非常に貴重でした。
ジェンセン家族はアメリカに戻り、エロイーズはシュイナード芸術学校(現カリフォルニア芸術大学)で4年コースを受講しました。
就職
卒業後、彼女はハント・ストロンバーグ(Hunt Stromberg)監督に自分を売り込みました。監督は当時MGM社を去った直後で、映画制作会社を作り始めていたのです。
ナタリー・ヴィサート(Natalie Visart)がちょうどストロンバーグと契約を結びましたが、スケッチアーティストとアシスタントを必要としていました。ジェンセンはヴィサートが結婚するまでの3年間を一緒に働きました。
ヘディ・ラマーとの出会い
ヘディ・ラマー(Hedy Lamarr)は映画「ザ・ストレンジ・レディ(The Strange Lady)」でジェンセンのスケッチを気に入りました。そこでラマーはハント・ストロンバーグ制作会社の映画「ディスオナード・レディ(Dishonored Lady)」用に服をデザインするよう依頼しました。
ラマーとストロンバーグの議論は映画企画を破談にする寸前までいきました。しかし二人の関係は回復し、非常に若いジェンセンがラマーの衣装を上手にデザインしました。この映画で彼女は衣装デザイナーとして初めてクレジットされました。
ストロンバーグがプロダクション会社を閉鎖した後、ジェンセンはしばらくの間フリーランスとなり、ヘディ・ラマーの他映画「レッツ・リヴ・ア・リトル(Let’s Live a Little)」を手掛けました。
1948年の終わり、5人のデザイナーがセシル・ブラウント・デミル(Cecil Blount DeMille)の宗教叙事詩「サムソンとデリラ(Samson and Delilah)」(ラマー主演)のコスチューム制作を始めました。この5人とは、イーディス・ヘッド、ドロシー・ジーキンス(Dorothy Jeakins)、エロイーズ・ジェンセン、ガイル・スティール(Gile Steele)、グウェン・ウェイクリング(Gwen Wakeling)で、1950年のアカデミー賞を全員が受賞しました。
テレビ・ドラマ用衣装のデザイン
次の活躍はフォックス社との3年契約と、契約期間の終わり頃に担当したテレビ・ドラマでした。
ジェンセンはアン・ソザンのテレビ・シリーズ「秘密の秘書(Private Secretary)」担当を依頼されました。他のテレビ・ドラマでもルシル・ボール(Lucille Ball)主演「アイ・ラブ・ルーシー(I Love Lucy)」、ジュリー・ニューマー(Julie Newmar)主演「マイ・リビング・ドール(My Living Doll)」、エヴェリン・ケイズ(Evelyn Keyes)主演「ブラッケンズ・ワールド(Bracken’s World)」でも衣装をデザインしました。
他の活動
エロイーズ・ジェンセンは、コスチューム・デザイナーズ・ギルド(the Costume Designers’ Guild)、映画芸術科学アカデミー(the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, AMPAS)ファッション支部のメンバーでした。また、シュイナード芸術学校(現カリフォルニア芸術大学)で数年間にわたり映画やテレビのデザインを教えました。
関連リンク
- CalArts | California Institute of the Arts:シュイナード芸術学校の後身であるカリフォルニア芸術大学の公式サイト。
https://calarts.edu/
コメント