ナイロン・ストッキングの誕生エピソードをまとめています。
ナイロン・ストッキング(nylon stocking)は1930年代にアメリカで開発された世界初の合成繊維ナイロンを素材に作られたストッキングのことです。ナイロン・ホーズともいいます。
1940年に販売されて以来、同じニット系列のストッキングのうちそれまで主流だった絹製ストッキング(シルク・ストッキング)などを駆逐し、今では女性用ストッキングの圧倒的な位置に立っています。
ナイロンとは
ナイロン・ストッキングの素材であるナイロンは合成繊維の一種でポリアミド系に属します。
1936年にアメリカのデュポン社のカロザス博士らの研究チームが開発し、1938年に特許を取得しました。
特許権が切れる1953年までに他国の繊維会社が挙って導入し、同年以降さらに炭素原子数の違いを軸にあちこちで生産され、衣料品をはじめ使われるようになりました。
合成繊維の中でも最強で、摩擦強度がずば抜けていて耐水性も高いです。また染色性も高いので柄物ストッキングが流行するきっかけになりました。
他方でデメリットもあり、熱に弱く黄変します。また吸湿性が低いので、ショーツなどの下着には向きません。天然繊維と合成繊維を合わせた全ての繊維の中で絹に次いで紫外線に弱いです。
用途は広く、ストッキングをはじめ、婦人服、ブラウス、ワイシャツ、レインコート、水着などに使われます。衣料品以外では釣り糸、ラケットのガット、歯ブラシなど。
合成繊維の前史と略史
20世紀転換期、2人のフランス人移民が繊維と爆発物を支配しました。
イギリスでは世界最大のビスコース・レーヨン製造会社が現れ、アメリカでは火薬、ダイナマイト、そしてTNTの世界最大メーカーが出現しました。
デュポン社は化学系の巨大企業で、爆発物を作ることが皮肉なことにナイロン・ストッキングの製作につながりました。
デュポン社の本拠地であるデラウェア州ウィルミントン市は化学繊維産業の震源地となり、合成繊維の革命が始まります。
デュポン社の研究着手
ナイロンをはじめとするほぼ完全に合成された繊維はデュポンの研究チームがウォーレス・ヒューム・カロザース(Wallace Hume Carothers)博士の率いる研究に由来しています。
1938年に同社は世界で初めての完全合成繊維であるナイロンの製造を発表し、翌年のニューヨーク世界博覧会でプロトタイプのナイロン・ストッキングを実演しました。
翌1939年にデュポン社の開催した「科学の子供たち」展で研究班はナイロンが「ジュール・ヴェルヌやH. G.ウェルズのフィクションにのみ匹敵する」と確信しました。サイエンス・フィクションとワールド・ポリティクスが人造絹糸の陶酔的な公表によって結合しました。
人造絹糸は合成ゴム、化学染料、その他の人工的なものと一緒に真剣に繊維や素材の秩序の確立に挑戦しました。
デュポン社の化学的な飛躍は最大の国家的帰結として、自由なアメリカ合衆国から外国の原材料、特に日本製シルクを駆逐することになりました。デュポン社のナイロン・ストッキングは対日経済戦争の宣言となりました。
ファション史のなかのナイロン
ファッションの歴史では、ナイロン、ポリエステル、アクリルをディオール、ジバンシー、バルマンたちがワイシャツを同時代的に採り入れた事実を無視しています。
1960年代
そのうえ、新たな化学繊維がファッションに実践的な潜在能力として備わった1960年代、パリのデザイナーたちは宇宙時代のインスピレーションを得て、ロンドンのアナーキーたちはファッションを自分たちの基本要素と考えてポップ・カルチャーを捨てました。
1970年代・1980年代・1990年代
1970年代には1960年代の興奮が冷め技術的な困難に直面します。
スポーツウェアが1980年代のファッションに搭乗した時、徐々に合成繊維の復興が始まりました。ライクラ(Lycra)繊維が開発されパフォーマンスは急上昇します。
といっても1990年代に合成繊維がトレンドになったときに本格的な復活が生じました。
今日および未来のファッションはナイロンとポリエステルのハイテク素材で作られていて、デザイナーのファッション・ショーにも絶えず登場しています。ケブラー(Kevlar)のミニスカート、テフロン(Teflon)仕上げのズボンなどです。
ナイロン・ストッキング:デュポン社の開発
ナイロン・ストッキングのプロトタイプを試作する実験は1938年にデュポン社(Du Pont)が始めました。
新しい繊維を開発するにあたり同社の技術者はあらゆる種類の問題を解決しなければならず、その結果としてストッキングを製造していきました。
開発方法
最初に繊維を押し出してボビンに巻き付け、仕上げを加えなければなりません。最終的にはニット・シルク用に設計された機械を使ってストッキングに編む必要もありました。
新しい糸を紡ぐためには新しい機械を製造しなければなりませんでした。ナイロンとその前身であるシルクやレーヨンの物理的な違いを補うように考案された新しいステッチ技法と編製方が開発されました。
安価なストッキングは連続したチューブで編まれていたため膝と足首に垂れ下がったのですが(縦編・経編)、シルク・ストッキングは平らに編み(横編・緯編)、縫目とバック・シーム(後縫目)とをチューブを結合することで脚形を整えました。
当時のストッキングは脚の後中心を縫って完成したため(バック・シーム)、後代にフリー・ファッションド・ナイロン・ストッキングとも呼ばれるようになります。
新しくナイロン・ストッキングを製造するにあたり、デュポン社の科学者たちはナイロン・ストッキングの実現可能性を証明しました。
その方法や操作とはさまざまで、溶融紡糸、事前撚り、強度目的の撚り合わせ、伸縮性のための牽引、収縮除去、他にも、処理中・スプール中・編製中にフィラメントを保護するためのサイジング、さらに、皺を防止するためにストッキングの事前板張り、染色などでした。
開発上の工夫
ナイロンは熱に晒されると形状が変化するため(熱可塑性であるため)、最初のナイロンは型枠のない収縮した塊として浮き上がってきました。
デュポン社はナイロン事前板張りの技術を考案してこの失敗を克服しました。 靴下業界全体で使用することができます。
このシステムでは、新しく編成されたストッキングを脚形にし、蒸気を通して形状とサイズを熱処理しました。
「ナイロンは鉄そのもの」というキャッチフレーズでプレスリリースされ、ナイロン・ストッキングは、透け感、皺のない柔軟性および耐久性を強調していました。ナイロン・ストッキングは450gあたり4.27ドル、シルクは2.79ドルと宣伝されました。
ナイロン・ストッキングの潜在性は1938年10月に宣伝され、最初の1939年2月には最初の試験的ストッキングが編まれましたが、1940年5月まで大衆はストッキングを入手できませんでした。
同社はナイロンのストッキングが生産に入る前に既成の需要を作り出したのです。開発から10年後、ナイロンの販売のタイミングと状況には素晴らしい舞台が待っていました。
1939年2月のサンフランシスコ万国博覧会で初めて公開されたナイロン・ストッキングは、同年後半に開催されたニューヨーク万国博覧会で最も称賛されました。
販売前夜
デュポン社の意向
ナイロン・ストッキングの開発から販売に至る過程でデュポン社のイメージは化学薬品・化学兵器から愛らしい脚を見守る企業へと変わりました。
ナイロンは繊維の天才であり、征服した英雄のように国民に受け入れられ、1年足らずで家庭的な言葉になりました。繊維の全歴史において、デュポン・ナイロンほど圧倒的に受容された製品は他にありません。
1940年にデュポン社は「1年以内に何百万人ものアメリカ人女性が石炭・水・空気から作られた靴下を着用するだろう」と「Textile World」にコメントしました。
同社はレーヨンの運命を避けることに決めました。レーヨンは不適当な製品に作られシルクの安価な代用品になっていました。デュポンは、ナイロン製の衣服を製造する上で誇りの精神を強調し、「レーヨン」という言葉が全てのレーヨン製品に記載されている訳ではないと指摘しました。
「ナイロン」の言葉はナイロン製ストッキングにはっきりと打ち抜かれて編み込まれました。ゲージによって、ナイロンの価格は$1.15、$1.25、$1.35と想定され、ファイン・シルク・ストッキングの価格に相当していました。
試験販売
デュポン社はナイロンを優れた製品として確立するつもりだったので慎重でした。発売前に新しい繊維を秘密にし、公式発表までの数ヶ月間にわたりスター製品に注意を払いました。
最初のストッキングは、1939年2月20日に同社の女性従業員に対して2組のストッキングに限定して各$1.15で販売されました。そして、購入後10日以内にストッキングのアンケートに回答するよう同社は指示しました。
最初の公式リリースは1939年10月24日に同社創業の地・本社所在地であるデラウェア州ウィルミントン市内の店舗で行なわれました。顧客は3組までの購入に限られ、地元の人のみが購入できる資格がありましたが、4,000組のストッキングがたった3時間で売り切れました。
テクノロジーとファッションが完璧に調和したのはその時代の象徴でした。
短いスカートが脚に注意を向けさせたにも関わらず、(既存のストッキングでは)シルクは高価で電線しやすく、レーヨンはフィットしにくく輝きだけが激しく「二流」の異名をもち、コットン(リュック・ストッキング)は足首と膝の周りにゆったり垂れ下がっていました。
「ナイロンには鉄の力があり、クモの巣のようにフィットスル」というキャッチフレーズで、メディアや大衆はナイロン・ストッキングが伝線しないと予想しました。
この宣伝には揶揄もありました。1人のユーモアな女性が「アセチレントのバーナーを使ってストッキングを脱ぐしかない」と嘲笑しました。
デュポン社は「伝線しない」と公言していたので、「奇跡の糸」のイメージを損ねると不快感を示しました。
そこで同社は注力し、ナイロン・ストッキングが大衆の期待を裏切らないようにキャンペーンを行なって、伝染する不安を消そうとしました。
プレスリリースと宣伝
噂をかき消すためにプレスリリースでは、ナイロン・ストッキングは丈夫なので1年間で女性は2組のストッキングを穿き続けられること、糸はカミソリの刃やネイル・ファイルに影響されず、タバコで穴を開けることすらできないこと、等々がアピールされました。
確かに、ナイロン製ストッキングには軽い絡まりはありがちですが、穿孔になったり電線が走ったりする可能性は低まりました。敏感な女性の中には、ナイロン製ストッキングがシルク製ストッキングよりやや冷たい感じで、シルクのような包容力がないことを報告しました。
ニューヨーク万国博覧会
1940年に開催されたニューヨーク万国博覧会のオープニングまでにデュポン社は新しいナイロン素材を隠し、「化学のワンダーランド」ショーで1938年時以上の観客を前に公開しました。
数千人の観客の前に照らされた噴水の投光照明付きの中庭で編機がナイロン・ストッキングを編んでいきました。
そして、機械仕掛けの手がナイロン・ストッキングを引き延ばしその強度を証明したのです。700万ドルを投資したといわれる演出は成功し、巨大なディスプレイは化学がファッションに素材を提供することを象徴していました。デュポン社は女子の脚の前にたくさんの聴衆を魅了しました。
ニューヨーク万国博覧会ではヒロインのテスト・チューブ・レディ(プリンセス・プラスティックの名で知られる)が巨大なテスト・チューブから出現し、人工素材が完全に離陸したことを示しました。
ミス・ケミストリ・オブ・フューチャ
そして、ミス・ケミストリ・オブ・フューチャは全ナイロン製品をモデル化したもので、彼女はイヴニング・ガウン、ストッキング、サテンのスリッパ、下着を付けていました。
つまり頭から足にかけて彼女が着用した衣料品は全て人工素材で化学者によって作られた合成物でした。
彼女の帽子はセロファン、フロック(ドレス)はレーヨン、ストッキングはナイロン。パテント・レザーのハンドバッグを持ち、模造アリゲータ(ワニの一種)の靴で立ち、「翡翠」のブレスレットと「アイボリー」のビーズを身に着け、パラソルの把手は美しい色のプラスチック製でした。
模造シルクのハンカチには合成香料で模した麝香の匂いがし、ネイルには合成染料が輝いていていました。また、他の石炭タール染料は彼女のアンサンブルに豊かな色合いを与えていました。
先行販売
1940年、デュポン社はドレス用品分野で新しいデュポン糸が将来の発展に有望視されていると控え目に予測しました。
現時点でデパートには実験的な基盤としてナイロンを含む衣類やランジェリー、 それにニット衣類が置かれていました。
ホールプルーフ・ホージリィ(Holeproof Hosiery)社のオール・ナイロン・ランジェリー(All-Nylon Lingerie)などの製品は、材料繊維を各工場が入手するや否や全て売り切れていました。しかもナイロン100%のトリコット・ランジェリーの価格は最高品質の純粋な絹の衣料品と同じ価格帯だったのです。
おそらく最も幅広いナイロン・ラインはフォームフィット(Formfit)社のものでした。同社は当初、ナイロン製の衣料品(ナイリーズ)2種を提供しました。一つは、小売価格5ドルのガードル、二つは、7.50ドルのコンビネーション・ガードル・ブラジャーです。
のちにフォームフィット社は喚起的な「スキャパレリ」と呼ぶ高価なナイロン製品で成功をおさめます。同社製品は柔らかく、絹製編糸やレーヨン製編糸などを凌駕しました。
ナイロン・ストッキングやナイロン・ランジェリーのように、ナイロン編糸は簡単に洗い流すことができ、直ぐに乾燥しました。高品質な衣料品を1点くらいしか入手できない女子たちにとって、このような利点は特に大きなものでした。
1960年代にフォームフィット社はロジャース・ランジェリー(Rogers lingerie)社を合併し、またエミリオ・プッチのデザインした部屋着を製造販売しました。
衣料品におけるナイロンの魅力
ストッキングやランジェリーの親しみやすい姿にナイロンが着手したことはハイテク製品の成功例でした。
そして全ての女性は理解しました、すなわち、科学革新とは製品になった形で享受でき、たった数十年で新しい繊維や記事が衣料品メーカーを押しのけ、最終的には消費者に届くと。
それまで生地が変わるたびに素材は編まれ織られ裁断されました。
そして編機に問題が生じることもあれば、スタッフの再訓練費が高くつくこともありました。でもナイロンは違って教科書的な方法で対処できました。原材料が同じだからです。
デュポン社の良き誤算
デュポンは商品販売に400万ドル以上の投資を行なっていたのに、「ナイロン」が重大な熱狂を呼び起こすとはあまり覚っていませんでした。
2年前に「ナイロン」は言語横断的な言葉ではありませんでしたが、1940年当時、ナイロンはアメリカの技術力の象徴となり、ナイロン製のストッキング売り場は購入者が押し寄せました。やがてナイロンはヨーロッパへも普及していきます。
本格的販売 : N’Day – 1940年5月15日
1940年5月15日、メイン州からカリフォルニア州にいたる工場やデパートはナイロン・ストッキングを発売する準備に入りました。
デュポン社はラジオ番組「キャヴァルケイド・オブ・アメリカ」Cavalcade of America で特別な全国放送して、系列会社のデュポン・ド・ヌムール(Du Pont de Nemours)の研究責任者ジー・ピー・ホフ博士が数千人の女性たちの疑問に答えるという企画を行ないました。
質問の代表者には消費者の視点を代表して典型的な主婦が選出され、ナイロン・ストッキングの着用方法、ストッキングのケア方法、ナイロンの特徴、費用、生産者情報を博士に尋ねました。
翌朝「ナイロン・ストッキング・デイ(N’Day)」にデパート開店の数時間前から群衆が並び、開店後はストッキング売り場に人だかりができました。新聞のフィールド・デーには色々書き立てられました。「ナイロン・セールで女子は崩れ女性はガードルを失った」「シカゴでナイロン戦争が始まった」「ナイロンの顧客たちはオープニング・ガンのように売り場を吹き飛ばした」等々。
次の広告は1940年、女優マリー・ウィルソン(Marie Wilson)の脚を模した2トンのモデル。ロサンゼルスの靴下ショップで公開され、彼女は比較のため空に上げられました。
多くの夫たちもまた売り場に群がりました。
ナイロンのストッキングを買わずに家には帰るなと、朝食のテーブルで妻から言われていたからです。あちこちのデパートで男性が数百人も押し掛けていました。
大規模な売り場では10人から30人ほどの店員が顧客に対応しました。
ナイロン・ストッキングはシルク・ストッキングと同価格帯で販売されたにも関わらず、100万組の約3/4が一瞬で売り切れたと言われます。
その結果、1941年にはナイロン製ストッキングは1組1.25ドルから2.5ドルで売られるようになり、シルク製ストッキングは1.35ドルから1ドル辺りまで暴落しました。
ナイロン・ストッキングの急速な普及
「ナイロン・ストッキング・デイ(N’Day)」に買い物客の大群はすぐに棚を空にしました。
2年後の1942年になると、アメリカの女性はすっかりナイロンを受け入れ、これまで化学用品に抱いていた不愉快な思いを捨てていました。
1939年11月までに、女性用ナイロン・ストッキングとナイロン製ランジェリーは、シルク製の靴下やネクタイのような収益性の高い男性衣料品と同じ世界に突入していました。
ナイロンは安定した価格で提供され、靴下専門店はほとんどナイロンを販売せず、路上のキオスクやスマート・シティやナイトクラブでタバコを吸う女子たちが販売していました。
1940年の時点でデュポン誌は、ナイロンの製造に2,800万ドルを既に投資しており、生産されたナイロンの90%が女性のストッキングに混入されている語っていました。
それでもナイロンの前例のない強さ、耐摩耗性、弾力性を実証するために、1941年12月の日本による真珠湾攻撃の1ヶ月前、ヤンキー・スタジアムで試合に出場するフットボール選手向けにナイロン製ズボンを提供してアピールしました。
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