ジャン・パトゥ(Jean Patou)は1888年にフランスのノルマンディーのバスタ地方で、皮革商の息子として生まれたファッション・デザイナー。
1920年~1930年代に活躍したジャズ・エイジを代表する、フランスの有力なクチェリエです。
ジャン・パトゥの創業
伯父が経営する毛皮店を手伝っていましたが、1910年にパリに渡り、自分で毛皮とドレスを扱う小さな婦人服店「パリ」を開きました。
1912年に紳士服部門を設置し、略礼服のスモーキングなど、活動的な正装を生みだし、アメリカのバイヤーから爆発的な人気を得ます。時には一人のバイヤーがコレクションのすべてを買付けるという幸運に恵まれました(1914年)。
大尉として第1次世界大戦に従軍した後、1919年にパリのサンフロランタン街の由緒ある館のサロンを借り、翌1920年春に「ジャン・パトゥ」の名で店をオープンしました。1924年の訪米のさいに6人のアメリカ女性を連れ帰ってモデル(マヌカン)に育て上げて話題を呼びました。
1936年、49歳の若さで死没。義兄のレイモン・バルバスが経営面を引き継ぎました。
専属デザイナーとして活躍したのは次のような人物です。マルク・ボアン(1954~1958)、ミシェル・ゴーマ、カール・ラガーフェルド(1958~1963春)、アンジェロ・タルラッチ(1973春~1976秋)、クリスチャン・ラクロワ、ロイ・ゴンザレス(1977年春~)。
1960年代からは美しい瓶に入った香水「ジョイ」(Joy)や「アムール・アムール」(Amour-Amour)も有名になりました。
ジャン・パトゥの作風と経営
作風
デザインはシンプルさとエレガンスが特徴です。当時の装飾芸術様式、アール・デコにきわめて調和するものでした。同時に「女らしい女」(Real Woman)に、最も似つかわしい服でもありました。
1929年秋、ヘム・ラインを一挙に床上20cmまで落とし、ウェストを復活させ、1930年代のモードの先鞭をつけました。
経営
徹底したビジネスマンとしての面を持ち、アメリカ流経営理念のもとにクチュール・ハウスを発展させました。
彼の経営はビジネスに結びつけたショーマンシップが基本です。コレクションを初めて夜間に開いたことでも有名。顧客にシャンペンを振舞ったり、店内にカクテル・バーを設けたり、発表したファンシーなドレスを売るのに、舞踏会を開いて顧客と一緒にダンスに興じました。そんなイベント好きなアメリカの顧客を特に大切にしました。
広いメゾン内には、縫製のアトリエ、刺繍、織物、染色、毛皮の作業場を設け、創作・製作機関を集中。今日のショーのリハーサルや、プレス・ショーの先例を開いています。仕立の素養がなかったとはいえ、マヌカンの肩に布地を掛け、ドレープさせながら即興的に衣裳を作るという魔術師的な才能があったといわれます。
ギャルソンヌ・ルックやカジュアル・ウェア
同じギャルソンヌ・ルックに類せられるガブリエル・シャネルの作品ですと、ローウェストのルックになります。これに対し、ジャン・パトゥはスカート丈をくるぶしまで伸ばし、ナチュラルなウェストラインを復活させました。
スポーツウェアやリゾートウェアに新しい面を切り開いたことでも知られます。当時はビアリッツ・ルックやドゥビル・ファッションといわれ、シャネルやパトゥの得意分野でした。また当時の人気テニス選手スザンヌ・ランランのためのテニス・ルックも手がけました。
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