ヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)の『パサージュ論』は未完成の著作物で、近代パリ、または19世紀の首都パリに関わる事柄をテーマ別に分けた引用集とメモ帳から成り立っています。
この内、Bのテーマとして「モード」(MODE)があります。このページでは、[BI, 2]に記されたメモ書きを衣装史的に辿ります。テキストは以下です。
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』今村仁司・三島憲一ほか訳、岩波書店、2003年
[BI, 2]では、ある事柄は自分の初期形態を前身に真似る癖が述べられています。ここでは、それを 初期形態からの変態 と名付けて前身との関係を考えています。
パサージュは、かつて人々が自転車に乗るのを覚えた屋内広場に似ている。こうした広場で自転車に乗った女性は、ひどく魅惑的であった。当時のポスターにはそんな女性の姿が描かれている。シェレは女性のこのような美しさを捉えた画家である。自転車に乗るときの女性の服装は、後のスポーツ服を無意識のうちに先取りしていて、その服装はこれとほぼ前後して工場や自動車に関して登場してくる夢のような初期形態と事情が似ている。つまり初期の工場建築が、伝来の住宅建築の形態に倣おうとし、また自動車の車体が、馬車の形態を真似したのと同じように、女性が自転車に乗るときの服装には、スポーツにふさわしい表現と、伝来のエレガンスの理想像との相克がまだ見られるのである。その相克から生まれたのが、あのしかつめらしい、しかもサディスティックにくびれたタックである。これこそが、当時の男性たちにとって女性の自転車服をあれほど挑発的なものにしたのである。■夢の家■」[BI, 2](ヴァルター・ベンヤミン〔2003〕117頁)
ここで述べられている、後身の初期形態が参照した前身との関係を以下に列挙します。
- パサージュ←屋内広場
- スポーツ服←自転車乗用時の女性の服装
- 工場←住宅建築
- 自動車←馬車
そして、[BI, 2]の趣旨は、自転車に乗る女性が同時代の男性にとって魅惑的だったという点です。どのように魅惑的だったのでしょうか。視覚的に突き止めたい所です。
題材は、ジュール・シェレ(Jules Chéret, 1836-1932)が当時のポスターに描いていること、従来の服装と後代の運動着との両方を備えていること、そして、鹿爪らしく、かつサディスティックにくびれたタック(der verbissene, sadistische Einschlag)が施されていること、以上3点です。
そこで、、近代ポスターの父と呼ばれるジュール・シェレの絵画から、19世紀従来の衣装と後代の運動着の両方を備えたサイクリング中の女性像を探すことにします。シェレは1866年に印刷会社を設立し、69年から本格的にポスターを描き始めました(外部リンク:Copenhagenize.com – Bicycle Culture by Design: Learning From Historical Bicycle Posters)。シェレの絵画から、女性が自転車に乗っている作品を3つ探しました。
私が想像していたものとはいずれも違いました。シェレが活躍した19世紀後半に、多くの服飾史の文献が指摘するのは、サイクリングの服装として、いわゆるニッカーボッカーズ(ブルーマーズ)が下半身に穿かれるようになったことです。
したがって、上衣が膨らんでいて、下衣も膝丈までは膨らみ、それ以下が絞られているというイメージを想像していました。
これらの絵を見て思うのは、ウエストがかなり絞られていて、胸ではなく尻が強調されていることです。今からみれば意外かもしれませんが、19世紀の女性美に乳房はあまり入っていませんでした。この点については「女性美基準の輪郭の変化1:20世紀初頭まで」をご参照ください。
ベンヤミンは[B1, 3]で、1880年頃に「衣服のウエストをできるだけ体にぴったりとフィットする簡素なものにし、その代わりにスカートはロココ調を一層採り入れた」ことが当時の一つの流行りだったと述べています(118頁)。
推測:ベンヤミンの指すシェレの絵は?
以下、あれこれと推論を立てていきます。1枚目の「若い女性のサイクリング」の作成年が不詳ですが、2枚目と3枚目のポスターは1890年代です。
ベンヤミンが取り上げたサイクリング女性は屋内広場で乗っているのですから、野外を描いた1枚目の絵は、彼の念頭においたシェレの作品ではありません。屋内広場はパサージュの前身ですから、少なくとも両側に建物が並ぶ広場でしょう。3枚目は地面が土ですから、屋内広場には思えません。
[B1, 8]では「屋根つきのアスファルト舗装のされた広場」(120頁)で人々が自転車の乗用練習をした、とあります。
そこで、2枚目の「フランス国旗」(1891年)こそがベンヤミンの指すシェレの絵かと思います。裏付けとして「しかつめらしい、しかもサディスティックにくびれたタック」の付いている可能性は、2枚目>1枚目>3枚目と下がっていきます。
というのは、タック(Einschlag)は薄手よりも厚手の生地に用いられることが多く、一部を絞ることでその直下周辺を膨らませる効果があるからです。スカートを膨らませる方法として、他にクリノリンも19世紀中期から一部で流行りますが、もちろん、サイクリングでは使えません。
ですから、タックでスカートを膨らませるという手法が導入されたということは分かりますが、2枚目の絵からも、タックを確証できません…。
どうも、赤色コルセットと赤色スカートが分離していて、膝上くらいから白色スカート部分が継ぎ足されているように見えます。普通、タックは縦に入れますが、コルセットの下からタックが見えるとしたら、尻の横辺りにある縦線がタックということになりますが、ただの皺かもしれません…。
確証できないまま最後になりますが、[B1a, 3]に、「自転車は裾のまくれを表現するうえで、思いもよらない可能性を開いた」(122頁)として、ベンヤミンはシャルル・ヴェルニエを明示しているので、そちらを当たってみる必要があります。ただ、その路線でいえばシェレの絵では1枚目と3枚目が対象となるべきものとなります。とりあえずギブ・アップです。
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』今村仁司・三島憲一ほか訳、岩波書店、2003年
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