ローザ・ベルタンは1747年に北フランスのアベビル近郊に生まれたファッション・デザイナーです。
フランス語表記で「Rose Bertin」、日本語表記で「ローズ・ベルタン」とも。本名はマリー・ジャンヌ・ローラン(Marie Jeanne Laurent)。
マリー・アントワネットに気に入られ、当時の貴族階層への影響力がきわめて大きかく、盛時には「フランス・ファッション大臣」と呼はれました。
フランスのファッションデザイナーの祖といわれます。
しかし、古今東西多くの無名の無数の人間がデザイン行為をしてきたのですから、厳密には≪初めて名を残したファッション・デザイナー≫というのが正確な位置づけ。
経歴
16歳でパリに出て帽子店マドモアゼル・パジェル(Mademoiselle Pagelle)に就職。
服飾商に転職した後、1774年(1772年説あり)にシャルトル公妃やランバル親王妃の仲介で、ルイ16世の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette)のお抱えデザイナーへ。
この頃のベルタンについて、アントワネットの伝記のなかでシュテファン・ツワイクは次のように述べています。
専門分野では芸術家というべきこの女は、ヴォルテールをはじめとする当代の詩人や画家のだれもがついにできなかったことをなしとげた。それは、王妃ただ一人に引見されるという特典である。彼女が週に二回新しいデザインをもってあらわれると、マリー・アントワネットは貴婦人たちをほうり出し、尊敬すべき女流芸術家といっしょに私室にとじこもって、昨日のよりももっとばかげたモードをひねり出すためにこっそり相談した。シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』上、関楠生訳、河出書房新社、1989年、145頁
王妃のファッションに関する相談役となり、外国王室や外交官夫人の帽子やドレスも製作しました。
同時に、彼女は自店舗を約15年間にわたりパリのサントノレ通りに開業しました。店名はオ・グラン・モゴール(Au Grand-Mogol/「ムガール皇帝」の意)。
同店は繁栄をきわめ、仕立や刺繍をする30人の縫い子を抱えたといわれます。アントワネットすら知らないスタイルのドレスを着たがる貴族女性たちは賄賂まで渡したともいわれます。
アントワネット王妃がベルタンに発注したドレスやアクセサリーは際限なく国費を濫費し、フランス革命の誘因ともなりました。先に引用したツワイクはベルタンに否定的な見解を示して、フランス貴族を駄目にしたデザイナーといってます。
野心家のベルタンは王妃の愛顧に応えてその死まで献身的に仕えましたが、王妃の刑死後にイギリスへ亡命しました。
再びフランスへ戻ってからは大衆向きのアクセサリー店を開きましたが思わしくいかず、1813年に貧窮のうちにベルタンは死にました。
ローザ・ベルタンやマリー・アントワネットの生きた時代のフランス貴族の贅沢ぶりは、ドイツの経済史家ヴェルナー・ゾンバルトが詳しく調べています。
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