エルザ・スキャパレリは1890年にイタリアのローマに生まれたファッション・デザイナーです(1890年~1973年)。
エルザ・スキャパレリの通称はスキャップ。母国語表記は「Elsa Schiaparelli」。
父は東洋語学者、叔父は天文学者、従兄は考古学者というアカデミックな名門の家柄。
少女期に音楽・絵画・衣装デザインに熱中し、18歳で結婚しニューヨークへ渡ったが間もなく離婚。第1次世界大戦後に娘とパリへ移住。オート・クチュール組合で初めてファスナーを導入しました。
1930~1940年代にガブリエル・シャネルとともにパリのオート・クチュール界の女帝として君臨しました。
エルザは最も創作力ある個性的なモード界・ファッション界のシュルレアリストといわれます。
創業と事業展開
戦前
第1次大戦後にスポーツウェア、カジュアル・ウェアが流行する中、エルザ・スキャパレリは1927年にリュ・ドウ・ラ・ペ通りにスポーツウェア専門店「プル・ル・スポール」を設立。
ゴルフ、テニス、水着などのスポーツウェアに新たなアイデアを駆使し、当時の『ヴォーグ』誌を賑わせました。
同時に「トロンプ・ルイユ」をはじめとした黒や白のセーター、紳士用色物ネクタイ、首や腰に巻く派手な色のハンカチーフなどでも成功。
1935年にニット部門とドレス部門を創設し、ヴァンドーム広場のホテル・リッツの隣に店舗「スキャパレリ」を開店。
この頃「ギャルソンヌ・ルック」に対抗し、1920年代高級志向への回帰を計画します。肩をパットで強調しバストを回復し、ウェストを自然な位置においたクラシックなラインを提唱しました。
また、シュルレアリストのサルバドール・ダリ、ジャン・コクトー、マン・レイ、彫刻家のジャコメッティたちとの交流を深め、エルザ・スキャパレリはアートとファッションの融合を図っていました。
とくに、写真家のマン・レイはエルザ・スキャパレリ自身や彼女の制作した衣装をたくさん写しました。
次の作品はエルザ・スキャパレリが1969年に制作した女性用ディナー・ドレスです。
通称「ロブスター・ドレス」といい、スカート部分に巨大なウミザリガニがプリントされたものです。サルバドール・ダリの作品「ロブスター電話」をヒントにしたといわれます。
戦中・戦後
第2次大戦中はニューヨークに難を避け、エルザ・スキャパレリは1945年にパリの店を再開してセパレーツ(ツーピース)を導入。
しかし、デザインがますます独自なものになったためか、1954年のショーを最後に『ショッキング・ライフ』を出版すると同時に閉店・引退。1973年パリで死去。
店舗は引き継がれトルソー型の瓶で有名な「ショッキング」という香水など関連商品が販売されました。1977年春にセルジュ・ルパージュをクチュリエとしてオート・クチュール組合に復帰。
作風
エルザ・スキャパレリの大胆なデザイン手法にはシュルレアリストたちの影響が大きいです。
先に紹介した「ロブスター・ドレス」をはじめ、「骸骨セーター」「机の引き出しポケットのスーツ」「ショッキング・ピンク」「オマールえびとパセリのイヴニングドレス」「靴帽子」「ブランコ乗りのボタン」などの作品が知られます。
パリよりもむしろ刺激を求めるアメリカ女性のあいだで人気が高く、アメリカで仕事をした時期もありました。
それは1930年代のことで、アメリカの既製服業者が販売を強化しようとしてスキャパレリに助言を求めていたのです。
彼女の助言は、絶え間ない新作を出すのではなく1年に2回、春夏と秋冬にまとまったコレクション(ファッション・ショー)を行なうということでした。
上記以外の主要作品は、戦後の日本でも流行したいかり肩のブロード・ショルダー、ショッキング・パフュームといわれた人体型の容器に入れた香水など、常識に挑戦する卓抜なアイディアで評価を高めました。
また、ファスナーをオート・クチュールに初めて導入し、セロファンの服を作り、透明なプラスチックのコートを発表するなど、素材も斬新です。
スキャパレリの店舗で働いていたデザイナーには、ピエール・カルダン、ユベール・ド・ジバンシーらがいます。
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