モードの社会史:西洋近代服の誕生と展開
ヨーロッパがヨーロッパの服を生みだしたのは14世紀のこと
能沢慧子さんの「モードの社会史」は、14世紀にヨーロッパの衣服がヨーロッパらしくなったという観点に注目し、ヨーロッパのファッション史を述べたものです。
ヨーロッパは昔から洋服をもっていたわけではなく14世紀後半に洋服を生み出しました。
大丸弘説との共通点
この観点はかつて大丸弘も指摘しています。
14世紀にヨーロッパにヨーロッパ服(以下では洋服)が誕生したと見る点を著者と大丸氏は共有しています。大丸氏は1375年にヨーロッパで鋼鉄針が開発された点に注視しました。
では同じ14世紀の展開を著者はどこに求めるのでしょうか。私がこの本に注目しました理由はここでした。
大丸弘氏の論点は次の記事をご参照ください。
- 「中世:スカートを膨らませる」スカートの意味と歴史:名前の種類や流行から説明スカートは腰部以下を筒状に覆う独立した腰衣の名称です。また、上体衣と一体化された(ワンピース)丈の長い衣服の筒状の腰部以下もスカート(やスカート部分)といいます。したがって、衣服生成史からスカートは貫頭衣やチュニックの一部ともいえます。
- 「テーラリングの発生」貫頭衣からテーラリングへ:大丸弘「西欧型服装の形成」を読む貫頭衣からテーラリングへの展開は人類のファッション史で最も重大な出来事でした。古代東アジアではお馴染みのこの衣服、なんと西洋では14世紀くらいまでは一般的だったそうな。後進地域ヨーロッパでテーラリングが発生した理由はその後進性でした。
本書のコアな読み方
大丸氏の論点と著者能沢氏の論点とをつなげると、次のように要約できます。
能沢氏の紹介している14世紀のフランスおよびヨーロッパ文学における変化は大丸氏のいう1375年の鋼鉄針の開発を生み出した。
とはいえ問題も残ります。
大丸氏のいう鋼鉄針の開発はイギリスで実現しました。
そこで、フランス史を専攻とする能沢氏がイギリスの14世紀中期の文学をどう取りあげているのかをみる必要があります。
冒頭はイギリス詩人ジェフリー・チョーサーの「カンタベリ物語」から始まっている点、ヨーロッパ内の温度差を知るにも興味がつきません。
モードの社会史のはじまりを本書はどこに設定したか
ヨーロッパらしい服装すなわち洋服の誕生に関する能沢氏の観点は、大丸氏の注意する1375年の鋼鉄針の開発よりも先行しています。
著者の場合、洋服の誕生は1340年代頃にはみられるとのこと。当時の絵画や文学作品がある段階で描写方法や叙述方法を変えたう点に分析観点を求めます。
その結果、布地を裁断する方法に変化があったと結論づけます。
これは今でいう直線裁断から曲線裁断への移行だと述べています。このような事情は11頁辺りにまとめられています。
もちろん、直線裁断が直線裁断に移行したとはいえ、洋服をつくるときに全て曲線で裁断するわけではありません。洋服の裁断図をみると今でも直線が主流です。
曲線裁断の導入が与えた衣服形態の変化と男女差
その注意のもとで能沢さんの説に耳を傾けますと、曲線裁断が導入されることによって、14世紀の上流階級には大きく二つの変化が服に生じました。
- 袖付け技術
- ツーピースを想定した別々に裁断する方法
袖付けが14世紀に発生したことは想像できます。
アジアの服飾史では出て来ない点です。
しかし、ツーピースはアジアの服飾史(とくに中国服飾史)では紀元前から確認できるので、それを知ってか著者は袖付けほどインパクトがあった訳ではないかのように、やや筆を鈍らせます。他方で袖付けは1ページほどを割いて分かりやすく説明しています。
もとい、中国はともかくヨーロッパのみに限定して話を進めると、まずツーピースは男性に使われました。男性はツーピースの服が上流階級に広まっていたのです。
女性は非常に長い間、20世紀初頭までワンピースを基本としています。
ですから、中野香織が訳したアン・ホランダーの本「性とスーツ」に述べられるように、18世紀頃までのヨーロッパでのファッションは多く男性が牽引していたという話に繋がります。
本書のしっかり安定した軸
このような西洋の特徴を時系列で並べる場合、深井晃子のように在り来たりの西洋ファッション史は、特徴的な衣服を取りあげて、ヨーロッパのどこかに確認されたファッション史として雑煮風にまとめてきました。
ところが能沢さんは鋭くてバランスがよく、ヨーロッパ経済史の展開を叙述の一部で考慮しています。
中世ルネッサンスのイタリアの経済力や政治力の強さを14世紀ヨーロッパ服の誕生に重ね、周辺地域ことにフランス、やがては産業革命を最初に開始したイギリスへと、モードの中心を移していきます。
このように、ヨーロッパにおける洋服の誕生の技術的な事情(最重要のキーワードは裁断方法)と、その後に洋服がどのように展開していったかという時間的な説明がうまくかみあっています。
こういう手法に成功しているため、本書の内容はとても分かりやすく、かつ刺激的です。事情と時間という二つの軸があるので本書はブレがありません。
イギリスを先に述べるべきかフランスを先に述べるべきか
私なんぞは大学の講義で、経済史の知識に引っ張られてイギリス⇒フランスの順に説明しがちです。
これに対して本書はフランスから始めて次にイギリスを取り上げています。
私は経済史からファッション史を取り上げようとして、つい産業革命のイギリスの綿工業の発展とフランス繊維産業への悪影響という風に考えがちです。フランスは繊維産業をイギリスに奪われて、隣接するモード産業へ移行したという流れです。
フランスに注目することで見えてくること
しかし、フランスがイギリス産業革命以前に形成してきたモード産業の原型と呼ばれるような事柄は、私の観点からは視野に入ってきません。
著者はそのイギリス⇔フランス関係において、フランス・ファッション史であまり重視されてこなかった中世テーラーの職業に注目して論を進めます。
すでにフランスでは14世紀頃からタイユールと呼ばれる職業があり、これが後に英語でテイラーと呼ばれたこと、タイユールとは布を切ること(裁断すること)を意味した、といった状況がみえてきます。
本書の全体的な感想
ドレスメーカーはタイユールに対して数百年遅れた後続です。
このような違いをヨーロッパ服飾史から見られたので、本書を読んだ甲斐があったと思いました。オートクチュール一辺倒のフランス・モード史に斬新な観点を与えてくれました。
また本書がたんに斬新なだけでなく、徐々にフランスへ絞って述べていく著者の展開は、まさに軸をしっかりそなえたモード史として安定的な叙述になっていて、(深井晃子のたぐいとは違って)意義の大きい本です。
骨子を紹介しますと、モードの歴史やヨーロッパ服飾の歴史は次のとおりです。
- 起点の14世紀
- その後の衣服の変化と着用性差の変化
- 17世紀後半にタイユール組合に対してクチュール組合が独立したこと
- 19世紀末から勢力を増してきたオートクチュール職業
本書の続編(20世紀版)に位置づけられそうなものが次の本です。
日本の西洋モード史研究者って深井晃子のように嘘臭いのが多すぎるなか、能沢慧子氏の本2冊で十分、ヨーロッパのファッション歴史を理解できます。2冊とも強くおすすめします。
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