マリナ・ヴラディ
マリナ・ヴラディ Marina Vlady は1938年5月10日にフランスのイル・ド・フランス地域圏オー=ド=セーヌ県クリシーに生まれた女優です。本名はMarina de Poliakoff-Baidaroff。スラヴ系フランス人で女優4姉妹の末っ子。フランス語、イタリア語、ロシア語、英語が話せます。
ブロンドの巨乳ゆえ二人目のブリジット・バルドーとみる人もいれば、セックス・シンボル以外にも演技力を持っていると捉える人もいます。
ゴールデン・グローブ賞にノミネートされただけでなく、1963年のカンヌ映画祭では「女王蜂」での驚異的な演技力が評価されて最優秀女優賞を受賞しました。
経歴
マリナ・ヴラディは1938年にフランスのクリシーで女優4姉妹の末っ子に生まれました。ロシア生まれの父親はフランスの老舗画家。女優のオディール・ヴェルソワ(Odile Versois)は8歳年上の姉。マリナ自身も彫刻と絵画を得意とします。
マリナは幼いころからバレエ・ダンスの訓練を受け、プリマ・バレリーナになることを期待されていました。しかし姉妹と同じようにマリナは演技に親しみを覚え、1940年代に映画デビューを果たしていた姉妹たちと同じ道を歩み始めます。
デビュー
少女時代には女優の姉オディール・ヴェルソワと一緒にオペラ座の踊り子として舞台に立ちました。11歳の1949年にヴェルソワと共にフランス・イタリア合作映画「Orage d’été」(夏の嵐/夏の雷雨)に出演して映画デビュー。

マリナ・ヴラディと姉のオディール・ヴェルソワ。映画「Orage d’été」のスチール写真か…。via 573: ODILE VERSOIS · d’autres étoiles filantes
1950年代
1952年に公開された感動的な第二次世界大戦ドラマ「Penne nere」でマリナは主演俳優のマルチェロ・マストロヤンニと一緒に愛想感漂う演技を見せました。翌1953年にコメディ・ドラマ「L’età dell’amore」に出演し、イタリアでトップのキャラクター俳優アルド・ファブリツィと共演。
1954年「洪水の前」

アンドレ・カイヤット監督の青春映画「洪水の前」(Avant le déluge, 1954年)。マリナ・ヴラディ出演。via Document sans titre
そして1954年アンドレ・カイヤット監督の青春映画「洪水の前」(Avant le déluge, 1954年)で斬新な娘役リリアヌを演じました。もの憂い表情と見事な金髪で爆発的な人気を得て一躍スターの座に昇りました。この映画でヴラディは1954年度シュザンヌ・ビアンケッティ賞(Prix Suzanne Bianchetti)賞を受賞。姉ヴェルソワも1949年「最後の休暇」で同賞受賞。
「洪水の前」パンフレットからヴラディの評価を抜粋してみましょう。
中でも少女リリアヌに扮するマリナ・ヴラディは、この映画に出演した時まだ15歳の少女であったがその見事に成長した美しい姿体、エキゾチックな美貌は洋々たる前途を約束している(Avant le Deluge, 外国映画社、1956年5月、5頁)
1955年「悪者は地獄へ行け」
1955年、17歳の時にマリナは監督・脚本・俳優のロバート・ホセインと出会い結婚。彼女を有名にした映画が「悪者は地獄へ行け」(Les Salauds vont en enfer, 1955年)。この映画でホセイン監督はマリナに目立って色っぽく、復讐心に燃えるファム・ファタール(Femme fatale)役を演じさせました。この映画でマリナは水着姿を披露して世界を惑わせたといわれます(でもまだ17歳)。

マリナ・ヴラディ出演「悪者は地獄へ行け」(Les Salauds vont en enfer, 1955年)
その後1956年「Pardonnez nos offenses」、1958年「Toi… le venin」、1959年「La nuit des espions」で姉のオディール・ヴェルソワ(Odile Versois)と共演。
1960年代
1960年代にマリナ・ヴラディは自身の知性や感性の強い感覚をもって出演映画を選ぶようになります。
1960年に「飾り窓の女」で妖艶なムードの娼婦を演じ、忘れ難い印象を残しました。同年に他方で「La Princesse de Clèves」(クレーヴの奥方)で魅力的な聖職者らしい魅力を出しました。
1963年「女王蜂」
1963年にはマルコ・フェラーリ監督「女王蜂」(Una storia moderna: l’ape regina)に出演。性的に貪欲な妻の役を演じてファンを動揺させる一方で、驚異的な演技力が評価されてカンヌ映画祭で最優秀女優賞を受賞。
1965年に彼女は珍しく英語を話すドラマ「Falstaff (Chimes at Midnight)」に出演しました。これは英語を原語にしたスペイン・スイスのドラマでオーソン・ウェルズが監督しました。
その頃の出演映画で特筆すべきはジャン・リュック・ゴダール監督の「彼女について私が知っている二、三の事柄」(1967年公開)。このエッセイ風の映画でマリナ・ヴラディはジュリエットという枯れた団地妻・主婦を淡々と演じました。少ししゃがれかけた声が絶妙にマッチして、彼女の演技はジュリエットと同じように枯れたパリの人々やパリという都市を見事に演出しました。強烈です。

1967年に公開されたジャン・リュック・ゴダール監督の映画「彼女について私が知っている二、三の事柄」に主演したマリナ・ヴラディ。via Marina Vlady: Muses, Cinematic Women | The Red List
https://mode21.com/2-ou-3-choses-que-je-sais-delle/
1970年代以降
1970年代にマリナの人気は低下し、人気コメディをはじめテレビ・ドラマに出演するようになります。
1980年代からは社会的・政治的に疑問を投げかける作品に出演。自身も名声を使ってフェミニストやソーシャリストとして自分の意見を守るようになりました。女性の中絶権利を応援し、アルジェリア戦争に反対し、1968年5月の学生運動を擁護するなど、保守的な識者たちをギョッとさせました。
マリナ・ブラディの良さ
マリナ・ブラディの女優キャリア形成に大きな柱となったことに2点が挙げられます。まずロシア・ドラマからの影響です。姉妹間で愛されてきたチェーホフをマリナも好きでした。次いでフランス映画とイタリア映画の両方に出演してきた実績です。
ジャン・リュック・ゴダールやクリスチャン・ジャックといった独特なヨーロッパ最有力監督たちの作品でも、冷淡なキャラクターや辛辣なキャラクターを怯まずに演技しました。また不作法なコメディやエッジの鋭いドラマにも対応して演技力の高さを証明してきました。

ジャン・リュック・ゴダール『彼女について私が知っている二、三の事柄』(Jean-Luc Godard, 2 ou 3 choses que je sais d’elle) (c) 1967 – ARGOS FILMS – ANOUCHKA FILMS – LES FILMS DU CAROSEE – PARC FILM.
したがって、ブリジット・バルドーの継承と理解していては、マリナの演技力を無視することになります。
マリナはヌーヴェル・ ヴァーグの降盛にも埒外にあり、「洪水の前」(1953)で野性的な青春スターとして売り出した彼女は、そのアンニュイなムードと、はちきれるような肉体美で若い世代にアピールしました。当時のヴラディは、反逆する少女像の典型であった。ですが、「 悪者は地獄へ行け」(1955)あたりを最後に、 彼女も小器用な演技派に転向してしまいました。
ゴシップ
1956年にロベールオッセンと結婚したのをはじめ結婚歴は4回。ホセインとの間に2人の息子がいましたが結婚はわずか数年続いただけした。またロシアの詩人・歌手・俳優のヴラジミール・セミョーノヴィチ・ヴィソツキー(Vladimir Vysotsky)の未亡人です。噂によると彼はアルコールと薬物乱用を数年続け、1980年に42歳で心不全で死去。さらに彼女の第4の夫は2003年に亡くなりました。
1950年代に屈折した日本の中ものたちを夢中にさせたと言われています。少女なのにどこか崩れた表情、ふてくされた表情が人気だったようです。
1966年にミシェル・ポワロン監督の「OSS117/東京の切札はハートだ」のロケのため来日しました。また1992年に佐藤純彌監督「おろしや国酔夢譚」で女王エカチェリーナ2世役でゲスト出演。
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